心得たと思うは心得ぬなり
実に深いものであります。
これだ、心得たと思ったものは、たいがい勘違いか驕りなのであります。
そのあとに連如上人は、「心得ぬと思うは、こころえたるなり」と仰せになっています。
こういう言葉に触れると、真の道に達した人というのは、禅だの浄土門だのという違いはなくなって共通するのだと分ります。
気をつけていないと、心得るというのは、自分なりに解釈した自分に都合のよいものであったりします。
これは仏法のことを論じたことであります。
心得たというのを「悟り」と置き換えても同じであると思っています。
悟ったと思うは悟らぬなり、悟らぬと思うはさとりたるなりであります。
分ったような気になるということほど恐ろしいものはありません。
しかし、学んでいると分ったような気になるのです。
こういうものだと思い込んでしまうこともよくあるのです。
この過ちに気がつくには、やはり、謙虚に学ぶしかないのであります。
浄土門で言えば、謙虚に教えを聞くという、聴聞に尽きるのでしょう。
聴聞するには、自分を空っぽにしないといけません。
先日西園美彌先生にお越しいただいて、足指の講座を行ってもらっていました。
有り難いことに、このところ毎月学ばせてもらっています。
西園先生の足首回しというのは、独特なものなのです。
足の指の間に手の指を差し込んで、ぐるぐるまわすのですが、その方向が大事で、足首がうまくはまるように工夫しています。
私も毎回習っているので、自分では心得た気になっていました。
ところが、これが全く「心得たと思うは心得ぬなり」でありました。
先日の講座の折には、修行僧たちもお盆が終わって各自のお寺に帰っている者が多くで、人数が少なかったのであります。
その分一人ひとり丁寧に教わることができました。
足首回しを西園先生が私たち一人ひとりの足にご自身の手の指を入れて指導してくださったのでした。
私などは、粗雑に指を入れてただグリグリまわしていたのですが、なんとも軟らかく、心地よく、なめらかにまわしてくださるのであります。
これが足首回しというのであれば、今まで自分がやってきたのは、全く違うものだと分りました。
それから足の裏と手のひらとをただ合わせるというのもあります。
これは全く動きがなく、合わせているだけなので、何か物足りない気がしたのですが、実に奥深く、足の裏にも大きな変化があることが分りました。
手のひらに比べて、足の裏はそれほど敏感ではありません。
ですから手のひらの方があたたかいと、足の裏を冷たく感じます。
逆の場合もあります。
しかし、手のひらがあたたかいということを足の裏が感じることは難しいのです。
それでもなんとか感じようとしていると、感じてくるものです。
そうして手のひらと足の裏とを合わせて、その境目がなくなって一つになってくるのです。
そのようにしていると足の裏が軟らかくなり、感覚がはっきりしてきます。
はじめて禅の修行をした頃に、老師から公案は頭で考えずに足の裏で考えよと教えられたのでした。
足の裏で考えるとはいったいどんなことなのかと、頭で考えていましたが、だんだんと感じるようになってきました。
もっともこれもまた、足の裏で考えるとはこういうことだと心得たつもりになるのは、危ないのであります。
今回もまた三時間にわたって足の裏、足の指、特に足の小指、そして足首のワークを丁寧に教わったのでありました。
今回は、股関節も腰も上半身も全く何もしないのですが、なんと足だけで股関節が軟らかくなって、腰が自然と立って肩の力も抜けて楽に坐れるようになっていたのでした。
修行僧達も皆驚いていたのでした。
このあたりの不思議さが魔女トレと言われる所以なのでしょう。
講座のあと、控え室で、西園先生から質問をされました。
私がいろんな人に学んでいるので、混乱してしまうことはないかというのでした。
たしかにいろんな先生方に教えてもらっています。
教わることが楽しく、その度に自分の勘違い、思いこみに気づかせてもらえるのです。
しかし、それぞれの先生の仰ることはそれぞれなのであります。
そこで、あの先生はこう言ってたのに、この先生は違うことを言っているなと混乱することもあるかと思われるかもしれません。
ところが私自身、そのようなことは全くないのです。
とっさに思ったのは、忘れるということでした。
そこで西園先生には、こうお答えしました。
「西園先生に申し上げるのは恐縮なのですが、ほどよく忘れるのであります。
新しい講座を受ける時にはそれまでの講座のことを忘れてしまっているので、混乱することはないのであります」と。
人間の忘れるということは素晴らしいことであります。
全部覚えていたらたいへんなのであります。
もう私の頭などはザルのようなもので、学んでもそのままざーっと抜け落ちてしまっています。
そう申し上げると、西園先生は、さすがであります。
それでも身体にはちゃんと大事なことが残っていて、変化していますというのであります。
その通り身体は実に偉大なのであります。
いろんな方に教わって、頭には入っていませんが、身体にはちゃんと影響があるのです。
それから、いろんな方に教わっても混乱しないのは、違いを見ようとするのではなく、共通するものを、貫くものを学ぼうとしているからだと思います。
違いは当然あるものです。
しかし先生方に共通しているもの、貫くものがあるのです。
これこそが真理だと思っているのです。
今回も新たな発見がありました。
いつも西園先生が拇指球、小指球、踵の三点で地面を押して立つと教えてくださいます。
そして拇指球も小指球も踵も面ではなく、点でとらえるようにというのです。
拇指球の点については直接教わったものです。
小指球も教わっていました。
踵はだいたい分ったようなつもりになっていました。
それが違ったのでした。
やはり心得たと思うは心得ぬなりです。
それは、甲野陽紀先生に教わった踵の点と同じだったのです
やはり達人の見ているところは共通しているのであります。
私は漠然と踵の中央あたりを想定していましたが、違ったのでした。
そしてその教わった踵の点に注意を向けると、拇指球小指球踵の三点で立つことができて、上体の力も抜けてしっかりと立つことが出来るのです。
今まで心得たつもりが違っていたことをよく学ばせてもらったのでした。
やはり謙虚に学んではじめて気がつくものです。
心得た気になることに注意しないといけません。
それから驚いたのは、その講座の翌日、修行僧達の姿勢と声や目が変わっていたのでした。
姿勢がすっと腰が立って、声が実によく通る声に変わり、目もしっかりとしているのです。
どうしたのかと聞くと、一様に昨日の講座のおかげだというのでした。
人数が少ないおかげで、一人ひとり丁寧に教えていただいたことも関係しているかと思いました。
西園先生の講座の内容をすべて理解することは難しいにしても、身体はしっかり大事なところを受けとめて変化しているのだと分りました。
ともあれ、「心得たと思うは心得ぬなり」は肝に銘じたい言葉であります。
横田南嶺