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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.08.03
今日の言葉

生まれてきた意味とは? – 幼くして亡くなる子について –

昨年の八月に、滋賀県の彦根まで出かけて講演をさせてもらいました。

「虹天塾」を主催されている北村遙明先生の御依頼で引き受けたものでありました。

北村先生は、滋賀県の高校教師でいらっしゃいます。

毎月いろんな講師を招いて、勉強会を催されて、その講演内容を「虹天」という冊子にまとめて、多くの方に配っておられます。

私も毎月お送りいただいて、勉強させてもらっています。

その講演の終わった後、質疑応答の時間がありました。

この質疑応答は忘れがたいものでありました。

私のすぐ目の前で、おそらくご自身のご子息と思われる方の遺影を置いて、聴いてくださっている方がいました。

とても熱心に聴いてくださっていたのです。

講演が終わって質疑応答の時間になると、その方が質問をされました。

「幼くして亡くなってしまう子が生まれてきた意味は何か、幼くして亡くなる意味は何でしょうか」という問いでありました。

毎回質疑応答は緊張します。

どんな質問が出るか分らないからであります。

この質問は実に真剣な問いでありました。

その幼くしてお亡くなりになった子の遺影を抱いての質問であります。

ふだんはよく「生きること自体が意味だ」と話をしていますが、そんな容易に言葉が出てきません。

しばし沈黙したと記憶しています。

そしてじっと、遺影を抱いて真剣に問うその方の姿、まなざしを見つめて、静かに答えたことを覚えています。

やっと、出てきた言葉は、「もう答えは出ています」でした。

今ご子息の遺影を大事に抱いて、私の話を聴き、そして今もご子息のことを思い続けておられる、その姿に、生まれたきた意味が現れています。

あなたがその子のことを大切に思っておられることによって、大切な意味が現れていますというようなことを答えたように覚えています。

今月の「虹天」は、この質問をされた福原正人先生の講演録が載っていたのでした。

講演録には、幼くして亡くなったご子息から次のことを学んだと書かれています。

「出来事には意味を付ける自由がある」

「起きた出来事には意味が無くて、自分が「嬉しい・楽しい・悲しい」といった意味を付けています。

そこには意味をつける自由があるんだ、ということを知れば、たとえ苦しくて仕方ないときにも気持ちを切り替えていけるのではないかと思っています。」

ということです。

そのあとに昨年の講演で、私に質問をしたことが書かれていました。

講演のあと、「幼くして亡くなってしまう子が生まれてきた意味はなにか。 また幼くして亡くなる意味は何でしょうか」と質問されたことが書かれていて、

そのあと「すると、しばし考えられたあと、私にとって腑に落ちるようなわかりやすい答えをいただいたのです。

ところがです。

後日、次のようなお手紙が横田管長から自宅に届きました。

筆で書かれたそのお便りを、背筋を伸ばしながら読ませてもらいました。

「拝啓
先日は彦根にて拙いお話をお聞きくださり有難うございます。

ご質問には充分な答えができずに失礼しました。

常々「生まれてきたこと」「生きていること自体に意味がある」と話しをしていますが、ご子息の遺影を抱いてのご質問に安易な言葉が出ませんでした。

意味は作り出すもの、同封の坂村真民詩集の付箋のところは、生まれてすぐに亡くなった娘、茜さんを詠った詩です。

茜さんのことを生涯忘れず思い続け、詩に詠うことで茜さんの存在は死後も大きな意味を持ち続けます。

福原さんのようにご子息を大切に思っていらっしゃる処、すでに大きな意味があるとお伝えしたかったのでした。」

と書いてくださっています。

そして福原先生は

「このように横田管長も、「意味づけというのは作っていくものである」とおっしゃっており」と書いてくださっています。

そうして福原先生は、ご子息から学んだことに間違いはないだろうと確信をされたのでした。

付箋を付けた坂村真民先生の詩というのは次の詩です。

 三月八日
三人の娘を嫁がせ終わって
わたしたち二人の思い出は
今も賽の川原で遊んでいる
茜のことにおよぶ
きょうは天気がいいので
歩いて四十八番札所の
西林寺にお参りする
茜よ
お前の命日の三月八日は
観音日であるし
十一面観世音菩薩と刻んである
梵鐘を二人で撞いて
お前の冥福を祈る
乳も飲まずに
あの世に行ってしまった
茜よ
お母さんの撞く
この鐘の音を聞いてくれ
そしてわたしたちがくるまで
お地蔵さまと一緒に
遊んでいてくれ

という詩であります。

真民先生は、   

目も見えず乳も飲み得ぬ子がひとり
      賽の河原にまよふらむか
    
という和歌も残されています。

ここに詠われている「茜」というのは、真民先生のお子さんの名前です。

一九三五(昭和十)年三月清州高等女学校の教師として朝鮮で働いていた真民先生(二六歳)は、郷里の玉名郡月瀬村の辛島久代(十八歳)と結婚します。

一九四一(昭和十六)年三月、夫婦に待望の女の子が生まれますが、死産だったのでした。

真民先生夫婦は、その子に「茜」という名前を付け、それ以来毎年この「茜ちゃん」の誕生日であり命日である3月8日を大切な日として、過ごしてきたのでした。

真民先生夫婦にとって、この茜ちゃんは家族の「守り神」としても大切な存在であり、色んな場面で真民先生一家を救ってくれたのでした。

真民先生の全詩集には、茜さんのことを詠った詩がたくさん残されています。

大切に思い続けるから、大切な存在としての意味を持つのであります。

福原先生の講演録を拝読すると、次男の方は平成二十二年七月にお生まれになり、二〇一七年の七月にお亡くなりになっています。

七歳のいのちであったことが分りました。

通常は四十週で生まれるところ、二十三週と五日で生まれ、体重は五六六グラムだったというのです。

生まれてから三十六回の入院と十回以上の手術をされたとか、脳の障害、目が見えない、話せない、坐れない、呼吸がうまくできないという状況で、自宅で二十四時間介護なされたというのであります。

講演録には「妻は息子の死を目の当たりにして、心の病になり、今も一生懸命に乗り越えようとしている最中です」と書かれていますので、どれほどの悲しみであるのか、察するにあまりあります。

更に「今、講演家として多くの場所でこのようなお話をすると、「福原さんは乗り越えたからこそ、講演ができるんですよね」と言われることがあります。

でも、この悲しみというのは一生乗り越えることはないと思っています。

では、なぜこうやって話せるのかというと、「悲しみと共に生きる」と覚悟を決めたからです。」

と書かれています。

「これからも死ぬまでずっと、悲しみとともに生きていこうと思っています」という言葉は実に重く、そして深いものであります。

福原先生との出会い、そしてその講演録から多くのことを学びました。

 
横田南嶺

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