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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.07.07
今日の言葉

私たちは何か

わたしたちはどこから来たのか?
わたしたちは何か?
わたしたちはどこへ行くのか?

画家ポール・ゴーギャンが発した問いは、根元的な問いとして私たちの中で今も鳴り響き続ける。

東洋と西洋、 実践哲学と臨床医学という全く異なった土壌の中で発展してきた禅仏教と精神分析は、それぞれ独自の方法により人間精神に向き合ってきた。

この我々にとっての根元的な問い、 特に 「わたしたちは何か?」 をめぐって、 禅仏教と精神分析という異色のコラボレーションが刺激的な対話を繰り広げる。

先日、こんな企画の対談が行われました。

対談させてもらったのは、藤田博史先生であります。

藤田先生がどういう方かというと、パンフレットには、

「 1955年生

精神分析医・麻酔科医

信州大学医学部卒。

元ニース大学医学部附属パスツール病院医師。

フロイト / ラカンの精神分析から独自の量子論的精神分析を展開中。

現在、医療法人ユーロクリニーク理事長 狭山メンタルクリニック院長、 慶應義塾大学非常勤講師。

『精神病の構造』 はじめ著書多数。」

と書かれています。

パンフレットには、「量子論的精神分析を提唱 孤高の精神分析医」とも書かれています。

ちなみに、私はというと、なんと「日本の仏教に維新をもたらす天性の禅僧」と紹介されているのでありました。

別段維新をもたらそうなどという考えもさらさらありませんし、ただの禅宗の僧侶でありまして、天性の禅僧などと言われる者でもまったくありませんので、その点は会の始まりで否定させてもらいました。

対談となると、まず相手の方の著書を読むようにしています。

そこで藤田先生のご著書や、ジャック・ラカンについて書籍を読もうとしました。

読もうと努力したのですが、用語が難しいのと、哲学的な思弁にはもはやついてゆくことができずに、挫折してしまったのでした。

これでは対談は無理だと思って、主催者の方に申し上げたのですが、禅の立場を語ってくれればいいという事で、お引き受けしたのでした。

ラカンは難しいので、分らなくても大丈夫と言ってくれたのにはホッとしたのでした。

それでもそんな状態で対談に臨んだので、どうなるものかと内心ハラハラしていました。

はじめに藤田先生が、三十分話をされて、そのあと私が三十分話をして、そして一時間の対談となります。

お互い「私たちは何か?」というテーマで話をしたのでした。

藤田先生のお話は難しくて理解できないのではないかと心配していたのですが、とても分りやすくお話くださり、その内容は実に刺激的であり、大いに学ぶところがありました。

もう私の体の全細胞が喜んで活性化しているような感覚を得たほどでした。

私たちは言葉によって切り取られた世界に生きています。

言葉がなければ切り取られることもなかったのです。

藤田先生は「シニフィアン」という言葉を用いてられました。

真理というべき、一番目のシニフィアンとは何かについて説かれていました。

一番目のシニフィアンは言葉にならないのだと思いました。

それが二番目三番目になると、言語となって現われるのでしょう。

晩年のラカンはセミネールを開いても三十分くらいずっと黙っていて、そのあとボツボツと話したという逸話が印象的でした。

藤田先生は、精神分析医として、言葉を使わないで直接脳に情報をお送りこむのだと話をされていて実に興味深く思いました。

あとで対談の時にうかがうと、実際には、普通の精神科医のように、症状を聞いたり言葉で話しているらしいのですが、それと同時に言葉によらない方法を用いているというのでした。

最も大事なことは「このクライアントは治ると確信する」ことだと仰っていました。

その大事な情報を直接伝えることによって、患者自身が治ってゆくのだというのです。

そんな話をうかがってとても興奮しながら私が話をする番となりました。

用意した話もありましたが、冒頭で、言葉によらずに人の病を治すということで、岡田虎二郎の話をしました。

今で言えば鬱と言われるような方のそばでただずっと黙って静坐していてそれだけで、治していったという話です。

本当にその人のそばにいるだけで癒されるというか、人間本来のはたらきが活性化するということがあるものです。

そのあと、用意しておいた「私たちは何か?」について三十分話をしました。

「私たちは何か?」難しい問題ですが、禅僧は一言で答えるのです。

それは「わしは知らん」の一言なのです。

「不識」と書きます。

或いは南嶽禅師は、六祖から「なにものがやってきたのか」と問われて、「説似一物即不中」と答えています。

これであると何かを示したら、もうちがっているということです。

それは言葉によって切り取られた情報にしか過ぎないのです。

私たちというと、何か私たちは、どこかに私たちと私たちでないものとの境界線を区切ってしまっています。

私といえば、この皮膚の内側を思います。

私たちというと、この場に集まっている仲間を思ったりします。

或いは広く日本人を思ったり、アジア人を思ったりします。

地球はひとつの共同体と考えると、人類皆を私たちと思っています。

しかし、坐禅の修行をしていくとその境界線が無くなるのです。

無くなるというより本来無かったところに、勝手に区切っていただけだと気がつくのです。

そうなると、どうなるかというと、片岡仁志先生の『禅と教育』にある言葉を引用しました。

「絶対無になってみると、すべてのものがおのれと見えます。

すべてものを見るのに、ものに成り切ってしか見えないということです。

これは、ただの同情だとか感情移入だとかいうような心理的な作用とはまた違います。

……感情移入をする前に、われわれのこの絶対無の体験からみれば、ものと我とは本質的に繋がっているのです。

その繋がりが、実際は愛というものの根本です。

われわれの前に現われるものをすべて我として見るということは、すべてを愛することです。

自分が自分を愛するがごとく、自分以外のものが自分と同じように見えるということです。

他人が自分に見えて、自分を見るのにまた他人と同じように見える。

絶対公平に自他を見るということ、それが智慧であると同時にまた愛なのです。」

という慈悲、慈愛があふれてくるのです。

私たちは、そんな慈悲の中に包まれて生かされています。

しかし、慈悲とは何かといわれると知らないのです。

「ほとけはじひしてじひをしらず」という至道無難禅師の言葉を紹介して、知らずして行われている、知らないということほど真理に近いものはないと話をしたのでした。

藤田先生からは、用いる言葉はちがっていても、言おうとしていることは全く同じだという言葉をいただいて感激しました。

難しいから無理だと思っていた対談でしたが、大いに語り合い通じ会うところがあって感動したのでした。

 
横田南嶺

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