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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.06.21
今日の言葉

新たな発見と感動

坐禅の時に、法界定印という手の組み方をします。

とても理にかなった手の組み方だと思いますが、どうしてこの形になったのか、長らく分らないところでした。

数年前に、気功を習っていた頃に、手で気のボールを作ることを教わって、この気のボールのようなのが元になったのかと思ったりしていました。

先日藤田一照さんの講座を受けて、新たな発見であり、感動がありました。

まだまだ分らないことがあるものです。

先日久しぶりに一照さんの坐禅講座を行ってもらいました。

題して「打坐入門」です。

打坐の打は、動詞の接頭語であります。

まず講義では、

「目的のある人間的技法としての「瞑想」と

目的から自由な仏祖の法としての「打坐」」

と分けて話してくださいました。

この目的のある人間的な技法を一照さんは「習禅」だと説明されました。

「打坐」は「習禅」ではないのです。

目的をもった営みは世間智で行われます。

坐禅は、仏智の世界です。

世間智ではない仏智を知らないと、坐禅も何か目的をもった習禅としてしまうことになります。

習禅と打坐の違いは、目的のあるか無しかです。

瞑想といっても同じですが、心を静める為とか、アンガーマネジメントというように怒りをおさめる為とか、幸せになるとか、何らかの目的をもって行われるのです。

それに対して仏智というのは、科学や学問を含めた世間智を批判し、それを乗り越えるものであります。

仏法の方向性は、世間とは異なるのだと一照さんは強調されていました。

目的から自由な仏祖の法が、打坐だというのです。

そこで「作仏を図ること莫れ」という道元禅師の言葉を紹介されていました。

「無所得無所悟にて端坐して時をうつさば、即祖道なるべし」

という道元禅師の『正法眼蔵随聞記』の言葉も紹介してくれていました。

一照さんは海外で禅の指導をされていましたので、

「not doing but being」という英語でも説明してくれました。

なすことではなく、あることだというのです。

打坐というのは、このなすことを少なくするのです。

学校でも会社でも、もっともっととやることを求められます。

また瞑想には、対象があるけれども打坐には対象がないという説明もございました。

確かに瞑想というのは、呼吸を見つめたり、息を数えたり、真言マントラを唱えたり、仏菩薩を思い浮かべたりと対象があります。

打坐には対象はありません。

しかし、打坐には、まず六つの感覚器官をくつろがせることが大切だと、身体を使っての指導をしてくださいました。

六根をくつろがせるとは、過剰に乱用することをしないのです。

音がしてもただ聞こえるだけなのです。

ワークでは、まずテニスボールを使いました。

足裏でテニスボールを押すのです。

腰を立てるには、この地面を押す感覚が大事です。

足の指でテニスボールをつかむことも行いました。

つかもうとしていると、足の指までしっかりと意識が届くのです。

そうして、足の裏、足の指のワークをした足としない方の足とでは、接地感や肩の高さ、表情、 体の心地の違いがあるのです。

これなどは、体の反応がよく分ります。

それから三人一組になって大腰筋をのばす運動を教わりました。

これで、随分背筋が伸びるものです。

そして背筋の伸びる心地よさを感じることができます。

自分の身長が数センチも高くなったような気がするのです。

それから紙風船ワークというのを行いました。

紙風船を用意していたのですが、これを膨らませるのに息を吹き込んではいけないと指導されました。

ではどうしたら膨らませることができるかというと、ポンポンと下から叩いていくと自然と膨らませることができるのです。

これを両手にもって、紙風船の弾力を感じながら、その紙風船を決して潰さないように両手で押すのです。

そうしますと、体幹がはっきりするのです。

横から押されてもびくともしなくなります。

この紙風船の弾力を感じながら、潰さないように押して、その紙風船をおへそのした丹田の位置までもってゆきます。

すると、法界定印のような形になります。

その丹田の位置に来た途端に、私は頭のてっぺんから足の指の先まで、緊張感をもってつながり合う感覚が得られました。

今まで、よく老師方から「頭のてっぺんから足のつま先までひとつになりきるのだ」と教わってきました。

そこで、気合いを入れて一つになるように踏ん張っていました。

しかし、そんな気合いを入れて踏ん張るような力みではなく力みの抜けてほどよい緊張感でつながっているのです。

ああ、これだ、この感覚を伝えようとして、

「頭のてっぺんから足のつま先までひとつになりきるのだ」と言われたのだと分りました。

精妙なつながりとバランスで、体幹がはっきりして、丹田も自ずと充実するのであります。

こうして法界定印が出来ていったのだと感じることができました。

新たな発見でした。

新たな発見があると感動します。

こんな感動があるから、探求を続けるれるのであります。

法界定印を組む意味が少し解明されたのです。

修行僧達も一照さんの講座は楽しみながら学べて、自ずと体が調ってくるのを実感できますので、とても人気なのであります。

一照さんの茅山荘を訪ねた時に、一照さんが「愉快」と書いた掛け軸を拝見したことがあります。

まさしく一照さんの講座は「愉快」なのであります。

坐禅の一道は実に楽しく奥深いのです。

 
横田南嶺

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