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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.05.12
今日の言葉

林のように – 個性と同事 –

連休中に、円覚寺本山では、国宝舎利殿の公開と、大方丈での功徳林坐禅会を行っていました。

功徳林坐禅会というのは、最近始めたものであります。

法話と坐禅の会であります。

はじめに三十分の法話があって、そのあと一時間の坐禅であります。

私も初日に法話を担当しました。

この時の法話は、ライブ配信をしまして、今もご覧いただくことができます。

「息を数える」と題して数息観について話をしたのでした。

そのあと教学部の和尚から坐禅の説明があって、皆で坐ります。

初日は、私も法話のあと一時間皆さんと一緒に坐禅をしたのでした。

坐禅というのは一人で行うものですが、みんなと一緒に坐るというのも、これにも深い意味があるものです。

最終日の法話は羽賀浩泉さんが勤めてくれました。

羽賀さんは、最近非常勤で本山にお勤めいただくようになった青年僧であります。

昨年まで円覚寺の修行道場で共に修行をしてきた方です。

まだ二十代ですが、落ち着いてとてもよいお話をしてくださいました。

まず功徳林という言葉から話を始められました。

功徳というのは、善行を修することによりその人に備わった特性だと説明してくれていました。

よいことをしたあとに授かる恵みだと分かりやすく表現してくださっていました。

それから林についても詳しくお話くださいました。

林には大きな木、小さな木、いろいろございます。

人もまた、それぞれの悩みを抱え、価値観をもって生きています。

そんなそれぞれの人がまるで林のように集まって一緒になって功徳を積みましょうというのが、功徳林の意味なのだと話してくれていました。

羽賀さんは岐阜県の山県市の生まれで、林業の盛んなところだそうです。

山には、半世紀程前に杉の木を沢山植えたそうです。

そうするとどうなったかというと、きれいだった川が、山が杉の木ばかりになると汚れてしまったというのです。

いろんな木が育ってこそ、山が豊かになるのです。

杉の木だけとなってしまうと、山の豊かさが失われるということです。

人間もまたいろんな人がいるからいいのです。

そんな話を聞きながら、円覚寺の修行道場にもこの春には二十代、三十代、四十代、五十代、六十代と、じつにいろんな人が入ってきてくれたことを思いました。

いろんな人が一緒になって暮らすには、お互いを同じように統一しようとするのではなくて、お互いを認め合う寛容さが大事だと仰っていました。

そもそも仏教には、お釈迦様の教えから始まって、禅の様な教えもあれば、阿弥陀様を信じる教えもあれば、いろいろあるのです。

このように豊かに発展してきたのは、多様性を認める寛容さがあったからなのです。
人には坐禅が合う人もいれば、お念仏がいいという人もいます。

人それぞれを認め合うのです。

山を登るにも険しいコースもあれば、緩やかなコースもあり、車で登る道もあれば、ロープウェイで登る方法もあります。

でも頂は同じなのです。

木にもそれぞれ特性があります。

柱や梁にいいもの、それぞれです。

そこで羽賀さんは、空と海のジグゾーパズルを思い浮かべて欲しいと言われました。

似たようなピースはたくさんあっても、決まったところにしかはまりません。

それぞれがオンリーワンのかけがえのないピースなのです。

それと同じように人間にもその人だけの特性があります。

それぞれの特性を生かせれば良いのですが、時には今自分の直面していることが自分の役割ではないかもしれません。

そんな中で自分を信じて自分を造りあげてゆく努力が大切です。

それぞれの木が、自分の役割を果たすことによって林が豊かになってゆきます。

お互いの存在を認めながら、自分の役割を果たすことが大切なのです。

そこで羽賀さんは、「同事」という言葉を紹介されました。

同事は、挨拶や主人公という言葉が禅語として認識されていますが、同じように禅の言葉でもあります。

岩波書店の『仏教辞典』には、

四摂事または四摂法の一つとして解説されています。

「摂」は引き寄せてまとめる意であり、人びとを引きつけ救うための四つの徳を言います。

「原始仏教以来説かれるもので、<布施(ふせ)>(施し与えること)、<愛語(あいご)>(慈愛の言葉)、<利行(りぎょう)>(他人のためになる行為)、<同事(どうじ)>(他人と協力すること)をいう。」

と解説されています。

羽賀さんは人それぞれの個性があることと、この同事について話をされました。

コンビニに行くとどこでも同じ商品が置いています。

人は、同じ学校で、同じ授業を受けて勉強してもそれぞれなのであって同じ人にはなりません。

人は目の前のものを見たり聞いたり感じたり、心によって体を動かしています、

百人いれば百人の心のはたらきがあり、行動があります。

それがひとつに重なり合うこともあるものです。

それを羽賀さんは「同事」と表現しました。

そのことをご自身の坐禅体験をもとに話してくれました。

修行道場に来てはじめて坐禅をされた時のことです。

摂心といって、一週間の間ずっと集中して坐禅します。

摂心というのは、心をおさめると書くのですが、心はあちらこちらに散乱してしまって、なかなか集中できません。

そこで、数息観を教わったのでした。

出入りの息を数えるという単純なものですが、これをずっとやっていると心が集中されてきます。

そこから羽賀さんは更に深く体験されてゆきます。

今まで一人で呼吸していたと思っていたのが、みんなが呼吸していることに気がついて、みんなの呼吸が一つになってゆくと感じられたのでした。

そこから坐禅というのは、おもしろいと感じたというのです。

一人で出来る坐禅ですが、みんなで一緒に坐ることに、素晴らしい価値を見出したのでした。

お互い一人ひとりの命を生きていますが、みんなで坐ることによって、私の命はまわりの命とつながっていると気がつくことできたのです。

そんな感覚を養うのが禅堂であると語ってくれていました。

大勢の者がみんなで坐るのはあたかも林のようだというのです。

文字通り、修行道場のことを「叢林」とも言うのです。

同じところで、同じことをするのはとても素晴らしい貴重なことなのです。
それぞれがオンリーワンの役割を持っていながら、みんながぴたりと重なり合うのが「同事」です。

それぞれの個性を発揮するのと、心をひとつにするというはたらきが、コインの裏表のように重なり合っているのです。

ですから坐禅は個人の行であると共に全体がひとつになるものでもあります。

それぞれの役割を果たすことと、同事であることの両方が大切なのです。

そうすることによって、全体が林のようになると言われていました。

修行道場であれば叢林と言いますし、家庭であれば家が林であり、会社が林、地域が林、国や地球全体が林であると言えます。

個性を発揮して自分の役割を果たすことと、まわりと一つになる同事との両方が大切なのだと説いてくださっていました。

功徳林坐禅会というのに実にふさわしい法話でありました。

お若い人のお話を拝聴するのは有り難いことであります。

 
横田南嶺

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