伝統を守ることと伝統を破ること
なんといっても、それは師資相承という伝統の系譜を重んじていることからも明らかであります。
師資相承というのは、師匠から弟子へと法灯を伝えてゆくことを言います。
嗣法といって、師匠から教えを受け継ぐことをもっとも重んじているのです。
お釈迦様が迦葉尊者に法を伝え、迦葉尊者が阿難尊者に伝えてと、第二十八代目が達磨大師です。
それから代々伝わっていること重んじています。
それのみならず、様々な伝統文化を大事にしていることからも分かります。
それぞれのお寺では、それぞれ言い伝えられていること、受け継いでいる伝統があります。
それは様々な文化としても伝わっています。
飯島孝良先生の『語られ続ける一休像』を読んでいると、入矢義高先生の言葉が引用されていました。
次の言葉です。
「禅問答というもの」にある言葉です。
「日本の禅について私がかねてから不審に思っていることが一つある。
それは直接に問答とかかわりのあることではないが、いま一般に《禅芸術》と呼ばれているものについてである。
端的にいえば、中国の禅は美の世界とは全く無縁であった。
まして造形美術とは何の因縁も持ちあわさなかった。
墨蹟、絵画、庭園、茶などが禅と因縁づけられることによって特殊の美の世界を作ったなどということは、中国禅の歴史にはかつてなかったのである。
それが日本禅において、にわかに展開するようになったというのはいったいどういうことなのであろうか。
きびしくいえば、むしろ禅の頽廃と断じる見方もありうるのではないか。」
というものです。
これはただいま岩波現代文庫の『求道と悦楽』に収められていて読むことができます。
今世間で、禅というと、水墨画や墨蹟、あるいは最近禅画といわれるもの、枯山水の庭、茶道などが思い浮かぶことが多いのです。
しかし、それらは決して中国由来のものではないというのです。
確かに墨蹟などは、中国のものが重んじられていますが、今日の日本で尊ばれているように、禅の芸術としてみているのではなかったのでしょう。
相手に自分の気持ちを伝える書簡であったり、相手に教えを示す法語であったり、それぞれ用途があってのものです。
観賞用でなかったことは確かなのです。
枯山水の庭が禅だと思うと、中国の禅寺には無かったものでしょう。
伝統を伝えているといいながらも、決して中国のものをそのまま継承しているのではなく、そこに新たな発展があって、今日の日本の禅となっているのです。
つまり伝統を伝えるということは、過去のものをそのまま忠実に守るというのではないということであります。
過去のものを忠実に守っていれば、今日の禅の芸術は成り立たないのです。
入矢先生から「禅の頽廃」と言われるかもしれませんが、今や立派な文化であり、これは日本ではもう「伝統」になっているのです。
飯島先生の本には久松真一先生の言葉も引用されています。
「禅学即今の課題」という講義録であります。
飯島先生は、ここから重要なところを引用されています。
またそこに引用された久松先生の言葉には考えさせられることが多いのです。
「伝統を破ること、或はまた新しく創造することは、伝統の玄人の域を脱してゆくこと、即ち玄人ではないものが現れることである。
総じて改革・革新・革命といふやうな事には、必ずそこに素人的なもの、伝統的玄人的でないものが働いて来るものである。
それは、素人には、自由な、過去の物に拘らない、情実や殻を持たない理性の力が働くからである。
かくて、私は、禅についても、この素人的なものの出現することを望みたいのである。
そして、かゝる点で従来の禅門に於いてあまり重んぜられなかった学校教育が盛んになることを望みたいと思ふ。」
というのは実に炯眼であります。
伝統の玄人というのは、尊ぶべきものであります。
そういう人によって伝統は伝えられているのであります。
しかしまた、この伝統の玄人が、伝統の世界を狭くしてしまっている一面もありはしないかと考察することも必要であります。
禅の歴史は、常にこの玄人的なるものを打破してきたところにあります。
近世の禅にしても、至道無難禅師の仮名法語などをよむと、この玄人ではない一面を持っておられたと思います。
正受老人もそういう一面を持っておられたと思います。
いやさかのぼれば、臨済禅師という方などは、伝統の仏教学からみれば、玄人の域を脱したと言えましょう。
臨済禅師の説法は、「自由な、過去の物に拘らない、情実や殻を持たない理性の力が働く」と言えるでしょう。
更に、久松先生は仰せになっています。
「禅では自己を仏とする。
自己の外に仏と云ふものはない。
何処までも生きた仏と云ふものを本当の伝統とするわけである。
伝統とは決して、形のあるものを伝へて来ると云ふ事ではない。
伝統、特に禅の伝統は形のないものが形のないものを伝へる事でなければならない。」
というのであります。
もちろん今日の禅の芸術も尊く大事にしなければならないのですが、禅の本質は、この形のないところにこそあります。
そこで久松先生は、
「つまり、この師資相承と云ふ、禅で最も重んぜらるゝこの伝燈と云ふもの、而も禅ほどこの伝統が脈々と継がれてゐるものは、他の宗旨に於いては見られないと思ふがーそれは、形のないものが、形のないものを伝へる事である。
形のないものであるから一方で云ふと伝へる事もないわけで、伝へる事のないのが、禅の真の伝統であり、無伝統の伝統とはこの事である。」
と説かれているのです。
「伝統を常に破って、その伝統から絶えず抜け出て行く事が、真の伝統を守る事になる」という言葉は肝に銘じたいものです。
飯島先生は「「無伝統の伝統」を実践し、公案以前の「独脱無依」の絶対無的主体に立ち還らせる「主体的公案」を創造することこそが、「禅学即今の課題」だというのである」とまとめてくださっています。
もちろんのこと、伝統を破るだけではなにもなりません。
かといって伝統を守るだけでも伝わらないのであります。
伝統を守ることと、伝統を破ることは、常にふたつ相俟ってこそ伝統は守られ、継承されてゆくのであります。
そんな中でもっとも大切なことは何かを学ぶためにこそ、たとえば『臨済録』という書物があります。
ただこれも伝統という枠組みの中で読んでいたのでは、却って真意を見失うのです。
また室町時代の一休禅師という方も常に、この伝統を守ることと伝統を破ることの二つを行って真の伝統を明らかにしようとされていたのではないかと思います。
横田南嶺