般若心経に学ぶ生き方
このところ毎年横浜の朝日カルチャーセンターでお話をさせてもらっています。
昨年はオンラインで行ったのですが、今回は現場で行いました。
七十名くらいの大勢の方が集まってくれたのでした。
やはり同じ会場で学べることは有り難いものであります。
有り難いのですが、般若心経を90分で話をするのは、難しいものです。
花園大学で、九十分で六回話をしても十分に話ができたわけではありません。
致知出版社のセミナーでも、120分、五回話をしましたので、十時間かけて講義をしてもまだまだ足らないのであります。
それを90分にまとめるというのは容易ではありません。
般若心経は短い経典ですが、五蘊、十二処、十八界、四諦、十二因縁という大事な仏教の教えが凝縮されていますので、丁寧に講義をすると実に時間がかかります。
そこで、まずは、「スッタニパータ 1119」にある言葉を紹介しました。
岩波文庫の『ブッダのことば』から
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。」
という言葉を紹介しました。
般若心経は大乗仏教の経典で、空の教えを説いていますが、その源流はお釈迦様の教えに近いスッタニパータからも読み取れることを示しました。
この短い言葉にも「自我に固執する見解を打ち破ること」「世界を空なりと観じる」という大事な教えが込められています。
実に自我に固執する見解を打ち破ることが空であります。
「世界を空なり」と言いますが、この世界とは何か、空とは何かを参究するのであります。
この世界というのが、外に客観的に存在しているように感じていますが、それぞれ人はお互いに自分の世界を作り上げて、その中にいるのです。
お互いが世界だと思っているのは、お互いが五蘊によって作り上げたものでしかありません。
眼耳鼻舌身意という六根があって、そとの世界に触れます。
触れると心地よいか、不快かを感じます。
心地よいと感じるとうれしくなります。
不快だと感じると嫌な思いをします。
思う事から更にうれしくなって、もっと欲しいと強く思います。
嫌なものは退けようとしたりします。これが意志のはたらきです。
そうして、自分にとってこれは良い、これは悪いと色づけをしてしまっています。
これは生まれたときから行っているものです。
生まれたての赤ん坊がまず触れるのは母親です。
母親に抱かれると心地よいと感じます。
うれしいと思います。
ずっと抱かれていたいと願います。
そして母は優しい、大切な存在だと認識するのです。
逆には赤の他人に抱かれると不快です。
嫌な思いがします。
離れたいと願います。
あのオジサンは嫌だと認識するのです。
オジサンは実はとても良い人かも知れませんが、そのような認識を作ってしまうのです。
「嫌な人はいない、嫌だと思っている自分がいるだけ」という言葉を紹介しながら、お互いが五蘊という五つの要素によって自分の世界を作っているのです。
存在しているのは、この五蘊しかないのです。
まずはこの五蘊の世界にいるのだと気がつくことが第一歩です。
その五蘊には、変わることの無い実体はないのです。
お釈迦様は「スッタニパータ 142」に
「生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのでもない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。」
とお示しになりました。
お釈迦様が生まれ育った世界は、インドのカーストがあった世界でした。
生まれながらのバラモンという高貴な身分はずっと高貴なままであり、虐げられたものはずっと虐げられるのでした。
しかし、そのような変わることのない実体は存在しないと説いたのがお釈迦様でした。
行いによって高貴にもなれば、賤しくもなるのです。
変わることのない実体が存在しないということは、いかようにも変化しうることでもあります。
ですからお釈迦様は、「ダンマパダ1」に
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。―車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。」(『ブッダの真理のことば感興のことば』より)と説かれたのでした。
これは空であるからこそ、心によって清らかにも生きることができるのです。
しかし、そんな中にありながらも、お互いは自ら苦しみを作り出しています。
そんな様子を、お釈迦様が「スッタニパータ 728」に
「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起こるのである。」と仰せになり、
また「スッタニパータ 739」に
「およそ苦しみが生ずるのは、すべて妄執 (愛執)に縁って起こるのである。」
と示されています。
無明から始まるというのは、十二因縁の大事なところです。
無明は、真理を知らない無知です。
妄執から苦しみが生まれるというのは四諦の教えの要でもあります。
妄執とは、ありもしない自我を実在と思い込んで、執着することを言います。
無明から離れるには、般若という智慧で正しく、この世はすべて五蘊によって構成されたものであり、そこに実体がないと見抜くことです。
不変の実体がないことをもともと無我と言っていました。
すべては変化してやまない無常であり、不変の本質を持たない無我であるというのが仏教の基本です。
無常であり、無我あるということは、お互いが見たり聞いたりしている世界は、様々な条件によって生じたものであるということになります。
これを因縁生と言います。
条件によって生じたのですから条件が変われば移り変ります。
これが無自性です。
因縁生であり無自性であることを龍樹は「空」と表現したのでした。
そんな思想的な説明から更に空の思想を掘り下げてゆきました。
そこで盤珪禅師がよく説かれた鏡の喩えを用いました。
人間の本性というものは本来、鏡のように清浄なものです。
この心が清浄であるということも「空」ということの原義でもあります。
鏡の中には何もありません。
物が前に来れば映るし、物が去れば消えるだけのことなのです。
しかも後には何も残りはしません。
物が映ったからといって、鏡の中に生じたものは何もないし、去ったからといって、鏡の中に滅したものは何もないのです。
これが不生不滅です。
きたないものを映したからといって、鏡の中は汚れませんし、きれいな花を映したからといって、鏡がきれいになるわけでもありません。
不垢不浄です。
鏡の中に物が映ったからといって、鏡の目方は増えませんし、物が去ったからといって、鏡の目方は減りもしません。
これを不増不減といいます。
清浄無垢な人間の本性を空というのです。
そんな鏡の喩えを用いておいて、最後には小笠原秀実先生の「般若心経意」を紹介しました。
以前にも紹介しましたが、素晴らしい言葉なのでまた読ませていただきます。
『小笠原秀実・登』八木康敝(リブロポート)から引用させてもらいます。
形あるものは すべてこわれてゆく
花のように 人のように 楼閣のように
されど形なきものは 虚空のように
大空のように いつまでもこわれることを 知らない
形ある すべてを棄てた心
変りゆく すべてを離れた心
それが 空の心である
碧の大空のように
空の心は限りもなく 涯もなく
増えることもなく 減ることもない
こわれゆくこの世のすべてを離れるが故に
生きることにも迷わず
つまずくことにも惑わず
唯すべての畏れを離れる
若葉にしたたる 日の滴が
すべてを包み すべてを はぐくむように
空の心は 何物をも許し
何物をも育ててゆく
それは限りなき楽しみであり
無我の明さである
朗らかな空の心よ
暖かく 滴たる空の光よ
そうして九十分の講義を終えたのでした。
朝日カルチャーセンターで聴講される方はみんな熱心に聞いてくださったので、とても話しやすく、有り難い会でありました。
ただ連休で横浜駅周辺は大勢の人出なのには驚いたものでした。
ともあれ有り難いご縁でした。
横田南嶺