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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.03.28
今日の言葉

沖縄慰霊

大学の卒業式を終えて次の日に沖縄に向かいました。

私のふるさとにある速玉大社の分社である、沖縄の沖宮主催のシンポジウムに招かれたのでした。

シンポジウムの依頼を受けたのは、速玉大社の宮司様の御依頼だったからでもありますが、是非とも一度沖縄に行ってみたいという強い思いがあったからでした。

私は、私用で外出することはありませんので、法話や講演、法要などの依頼がないと出掛けることがないのであります。

今回はよい機会だと思って、沖縄に行かせてもらったのでした。

ただいまの上皇さまが、「どうしても記憶すべきこと」などとして、四つの日を挙げられていました。

八月六日「広島原爆の日」、八月九日「長崎原爆の日」、 八月十五日「終戦記念日」、そしてもうひとつが六月二十三日の「沖縄慰霊の日」でありました。

この六月二十三日というのは、今は忘れられつつあるように感じています。

初めて修行道場に来た修行僧に、六月二十三日を迎えて、今日は何の日ですかと聞いても答えられないことが多くなっています。

沖縄戦の悲惨なることは、書物などで学んではいますが、是非とも一度お参りしなければならないと思っていました。

なぜ六月二十三日かというと、沖縄防衛の第三十二軍司令官牛島満大将(当時は中将)をはじめとする司令部が自決した日であり、この日をもって組織的戦闘が終結したとされているからなのです。

もっともその後も戦いは続いたのでした。

シンポジウムの前の日の夕刻に沖縄に入り、翌朝一番で摩文仁の丘に参りました。
ここは陸軍第三十二軍最後の地となったところであります。

沖縄平和祈念公園には、よくテレビなどで拝見していた、平和の丘モニュメントがございました。

それから国立沖縄戦没者墓苑にお参りしました。

沖縄戦では、死者は日本軍9万4136人、米軍1万2520人。さらに推計で約9万4000人の住民が亡くなったとされ、約二十万人が犠牲になったと言われています。

沖縄出身の軍人・軍属を含め、実に県民の四人に一人が亡くなったと言われているのであります。

更に牛島満大将と参謀の長勇中将を祀っている黎明の塔にお参りしました。

碑文には「第三十二軍は沖縄県民の献身的協力を受け力斗奮戦三ヶ月に及んだがその甲斐も空しく将兵悉く祖国に殉じ軍司令官牛嶋満大将並びに参謀長勇(ちょういさむ)中将等此の地において自刃す 時に昭和二十年六月二十三日午前四時三十分茲に南方同胞救護會の助成を得て碑を建て永くその偉烈を傳う 昭和三十七年十月 財団法人沖縄遺族連合會」

と書かれていました。

この摩文仁の丘には、各都道府県の慰霊の塔がございました。

ひとつひとつ丁寧にお参りしなければなりませんが、時間が限られていますので神奈川の塔にお参りして、島守の塔に向かいました。

先日須磨寺の小池陽人さんが、法話で映画の島守の塔をご覧になったと話しておられましたが、あの映画の主人公である島田知事と荒井警察部長とがお祀りされているところであります。

島田叡知事は、神戸の須磨の出身なのであります。

島田知事は昭和二十年の一月に沖縄県知事に赴任されたのでした。

「俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」と語ったと伝えられていますが、死を覚悟してのことだったのでした。

島守の塔は、昭和二十六年県民からの寄付により、島田知事をはじめ死亡した県職員453名の慰霊碑として建立されたものです。

それから少し離れたところにある「紀乃國之塔」にもお参りしました。

近くにある魂魄の塔にもお参りしました。

敗戦直後、住民が米軍の許可を得て遺骨収集班を結成し、道路や畑、丘、森に散っていた遺骨を集めて建立したのが魂魄の塔なのです。

ここは、「軍人の遺骨だからとか、憎むべき敵・米兵の遺骨だからとかいうわだかまりを持つことなく、誰に看取られることなくこの地で死んでいった者への哀悼の気持ちと、死者は丁寧に弔わなければならないという真摯な思いをもってを建立した」のだと平成二十一年翁長那覇市長が語っておられます。

これは実に怨親平等の精神でもあります。

その日のシンポジウムでは、熊野速玉大社の上野宮司がこのことについて語ってくれていました。

そのあとは、急いでひめゆりの塔におまいりました。

ひめゆりの塔については、よく知られています。

昭和二十年三月に、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計二百四十名(教師十八名・生徒二百二十二名)が、南風原(はえばる)にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍したのでした。

職員を含むひめゆり学徒隊二百四十名の中、死亡者は生徒百二十三名、職員十三名でありました。

今回学んだのは、なんと戦局が絶望的になり六月十八日には、学徒隊は解散を命じられたのですが、この解散命令以後に死亡したのは百十七名だそうで全体の八十六%にものぼるということでした。

なんとも悲しい事実であります。

ひめゆりの塔というと、昭和五十年の七月にただいまの上皇さまが皇太子だった頃に、美智子妃殿下と共に初めて沖縄を訪問されたときに、このひめゆりの塔で洞窟に隠れていた過激派の者が、皇太子の足元に向けて火炎瓶を投げ献花台を炎上させた事件がありました。

この時に美智子妃殿下がとっさに皇太子殿下をかばおうとされたと聞いています。

そしてそのあとのスケジュールも予定通りに行われたのでした。

その献花台に私もお花をお供えさせてもらいました。

実に上皇様は、皇太子時代の初訪問から数えると十一回、天皇ご即位後でも六回沖縄訪問をなされたのでした。

そんな次第で、シンポジウムの集合時間であった午前十一時までの間に、駆け足でありましたが、お参りさせてもらったのでした。

ほんのわずかな時間ですが、深い深い沖縄の悲しみを感じたのでありました。

 
横田南嶺

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