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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.02.25
今日の言葉

苦行でない坐禅を

三日間の講演旅行を終えて寺に戻った明くる日は、朝から面会の客が相次ぎ、それに研修が二件も入っていて、お昼の食事をする暇もないほどでありました。

時には、こういう慌ただしい日もあるものです。

二件の研修のうちのひとつは、東北地方から曹洞宗の若い和尚様方が布薩について、教わりたいと言ってこられたのでした。

今月は、初旬にも兵庫県の豊岡市から布薩について習いたいと言って若い和尚様がお見えになって講習をしたのでした。

それについで二回目でありました。

ふだんから戒にもとる行いがないか、反省することはいくらでもありますので、何度でも布薩を行うことは有り難いことであります。

その布薩を教わりたいという、その心があれば、道を誤ることはないと思います。実に尊いことであります。

曹洞宗というのは、我々臨済宗と同じ禅宗でありますが、共通しているところもありますものの、やはり異なるところも多いものです。

禅宗ですのでどちらも達磨大師を禅の初祖としています。

達磨大師から六代目の六祖慧能禅師までは同じ系統であります。

この六代目の六祖慧能のもとに南嶽懐譲と青原行思の二人の高弟がでました。

南嶽の系統が臨済宗へとつながります。

南嶽のもとに馬祖が出て、馬祖のもとから百丈、百丈のもとから黄檗、黄檗のもとから臨済禅師が出られたのでした。

青原行思のもとから石頭が出て、石頭のもとから薬山が出て、薬山のもとから雲厳が出て、雲厳のもとから洞山が出て、後の曹洞宗へと発展しました。

ただいまの曹洞宗は道元禅師の教えを忠実に学んでいる教団であります。

曹洞宗には永平寺と総持寺のふたつの本山がございます。

どちらとも修行道場で、何百名もの修行僧がいる大道場であります。

臨済の場合は、十四もの派に分かれて、修行道場も三十数カ所もあり、それぞれの老師のもとで独自の修行生活を営んでいます。

特に異なるところというと、よく言われるのが、曹洞宗は壁に向かって坐禅しているし、臨済宗はお互いに向かい合って坐禅することを指摘されます。

しかし、この違いはそれほど昔からあるのではなく、日本に禅が伝わった鎌倉時代には、臨済宗も壁に向かいあって坐禅していたようなのです。

それからなんといっても曹洞宗の特徴は行持綿密なることであります。

「威儀則仏法、作法是れ宗旨」といって、日常の動作悉く作法に則って行うように修行されるようであります。

それに比べて臨済宗は、大雑把なところがあります。

「大用現前、規則を存せず」という言葉をよく使うのです。

細かな規則にはこだわらないという一面を持っています。

そんな曹洞宗のお若い和尚様方で、しかも永平寺や総持寺という大本山で修行されてきたばかりでした。

永平寺や総持寺という大道場で修行された方に、私などが説くことはないと思うのですが、更に向上を求める求道心の篤さに心打たれました。

そこで、昭和の臨済宗を代表するといっていい山本玄峰老師の話をさせてもらいました。

玄峰老師は九十六才まで長生きされた方です。

最晩年におそばに仕えてしていた和尚からうかがったことがあります。

もう九十才を超えてから、夜寝る前に布団の前で正坐して、頻りに何かをつぶやきながら頭を何度も何度も下げていたというのです。

何をなさっているのかと思っていると、お詫びしていたというのです。

「今日あの人に会って、こういう事を言ったが言葉が足らなかった」、「不愉快な思いをさせたのではないか、申し訳ないことをした、すまないことをした」とお詫びしていたというのです。

「戒」の大切なことは、十分守れているなどとうぬぼれることではなく、とても十分ではない、申し訳ない、すまないという恥じ入る心を持つことです。

恥を知るといいますが、お釈迦様は最後にこの恥を知る事が大切だと言い残されました。

お釈迦様は、「慙恥の服は諸々も荘厳に於いて最も第一と為す」といって、恥を知る心こそ、最もすばらしい飾りであると仰っています。

申し訳ない、すまないことだったという気持ちをもっていれば道を踏み外すことはないとお話したのでした。

それからもうひとつの研修は、この春修行道場に入門される方の為の講習会でありました。

三月の末から四月の上旬にかけて修行道場に新しい修行僧が入ってきます。

来る前に、あらかじめ研修会を行おうと思って、かれこれ十年ほど続けています。

修行道場に入るにあたって、衣の着方や袈裟の付け方などの作法をあらかじめ学べるものは学んでおいてもらおうという主旨であります。

その研修では私は毎年体操を行っています。

一緒に体を動かし、ほぐしながら、少し新しい人と対話しています。

「坐禅は苦行だと思いますか」と、これから修行しようとする青年に尋ねると、「やはり苦行だと思います」という答えでした。

たしかに足の痛いのを我慢して修行するのだという印象が強いのだと思います。

しかし、その青年に告げましたのは、

「お釈迦様は苦行をやめて坐禅をなされたのではありませんか」ということです。

苦行をやめて坐禅されたということは、坐禅は苦行ではないということになります。

今のわたしたちは体が硬いので、坐禅をするのが苦痛になっているだけだと思います。

そこで長年いろんな先生方に習って自分自身で探求してきた体をほぐすこと、関節のなかでも股関節をゆるめるような体操などを行ったのでした。

まずはじめにそれぞれ独自に坐禅を組んでもらいました。

それから約一時間かけて股関節をおもにほぐしてゆく体操を行いました。

行った後でもう一度坐禅をしてもらうと、全くその姿勢が違うのであります。

きちんと腰を立てて安定して坐るには、足の指からほぐしていって、特に股関節を柔らかくして、はじめて足を股の上に乗せることができます。

股関節を柔らかくしてから足を股の上にあげるようにしないと膝をひねって痛めることになるのです。

きちんと手順を踏んで行うと、坐禅は決して苦行ではありません。

ほんの小一時間体操しただけで、そのあとに坐禅の姿勢をとってもらうと、姿勢が随分違ってきていました。

自然と腰が立つように見える青年もいましたので、どうですか心地よくないですかと聞くと、とても気持ちいい感じがすると答えてくれました。

これならずっと坐っていたい気がしますというのでした。

有り難い言葉でした。

こんな気持ちになって、苦行でない坐禅を身につけて欲しいと思って努力しています。

曹洞宗であろうと臨済宗であろうと、若い青年たちに教えることができるのは有り難いことであり、嬉しいことです。

こういうことは疲れないのです。

お互いに人として生まれたことの喜び、道を学ぶことの喜びに満ちた暮らしをしたいものであります。

 
横田南嶺

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