あたりまえの尊さ
自己の素晴らしさに目覚めるというのは、昨日ご紹介したパンダの喩えの通りなのです。
高楠順次郎先生が「人間の尊さは可能性の広大無辺なることである。その尊さを発揮した完全位が仏である」と仰せになっていますように、お互いには無限の可能性が具わっています。
そのことを、言葉をかえてみると仏心とか仏性というのでしょう。
そんな可能性を持っていながら、自分はこの程度だといって自分で自分を見限ってしまうのです。
そうかといって、その可能性を100%発揮しないと駄目だというのでもありません。
ことさら人よりも立派になろうと力むわけでもありません。
『臨済録』のなかに、
「殊勝を求めんと要せざれども、殊勝自から至る」という言葉があります。
ことさら立派になろうとしなくても、自然に全てが尊くなっているのであります。
学問ができるとか、人にはできない特殊な技能があるとか、それはそれで尊いことでありますが、もっと人間には根源的に素晴らしいものが具わっています。
それはどういうことかについて、臨済禅師は具体的に説かれています。
岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳を引用します。
「諸君、仏法は造作の加えようはない。
ただ平常のままでありさえすればよいのだ。
糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。
愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。
古人も、『自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。
君たちは、その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、いかなる外的条件も、その場を取り替えることはできぬ。」
と説かれています。
大便したり小便したりして排泄し、お腹が減ったらご飯を食べるし、疲れたら眠るのです。寒ければ厚着をしますし、暑くなると自然と薄着になるのです。
そんなことはあたりまえだろうと笑われるかもしれませんが、智者ならば分かると臨済禅師は説かれているのです。
これについて思い起こす話があります。
北野元峰老師の逸話であります。
余語翠厳老師の『人間考えすぎるから不自由になる』から引用します。
「永平寺の住職をしていた北野元峰という人にも、似たような逸話があります。
あるとき、北野師が長野県のほうで、学校の先生方を前に話をすることになったのだそうです。
さんざん聴衆を待たせたあげく、北野師は、
「要するに人間というものは食って出すだけのものだ。そういうことを心得ていなさい」といって帰ってきてしまったというのです。
先生方はえらく腹を立てたようだが、北野師は、根本を見据えて生きることの大切さをいいたかったのでしょう。
それを聞いた先生方の一人が晩年になって、ああそうかなと思い当たることがあった、と述懐しています。」
という話であります。
この話を読むと、すいぶんひどい禅師のように感じます。
北野禅師は、幕末天保13年1842年に生まれて、大正9年永平寺貫首になり曹洞宗管長も務めて昭和8年1933年にお亡くなりになっています。
そんな時代だということを思うと、長野まで出掛けるのは、たいへんだった頃の話であります。
時間が遅れてしまうことも無理もなかったと察します。
それにまた次の予定も入っていたとなれば、ほんの一言しか話せないという状況だったかもしれません。
そこで、禅師は、ほんの一言に自分の言いたいこと、伝えたいことのすべてを表現されたのではないかと察するのです。
それが「要するに人間というものは食って出すだけのものだ。そういうことを心得ていなさい」という言葉です。
臨済禅師のお説法にも通じるのです。
お互い人間というのも生物のひとつですから、口から食べてお尻から排泄するだけの生き物なのです。
お腹が減ったらご飯を食べて、疲れたら眠るというところに人間の尊厳を見出したいのであります。
しかし、なかなかそのことが分からないのです。
あまりにもあたりまえすぎて、あたりまえの尊さが分かりません。
先ほどの北野禅師の逸話にしてもさんざん待たされたあげくに説いてくださったのが、「要するに人間というものは食って出すだけのものだ。そういうことを心得ていなさい」というのでは、多くの方が腹を立てるのも無理もありません。
ただこのところにこそ人間の究極の尊さが示されています。
もしも優れた仕事をしないと駄目だということになれば、人間は最後には、何もできなくなってしまいます。
ベッドの上で、食べて出して寝るだけになるのです。
そこに尊さを見出していれば、人間の尊厳というものは失われることはないはずなのです。
今からもう二十年ほど前になろうかと思いますが、この北野老師の話で思い出すことがあります。
私の好きな話なので、いつだか学生坐禅会でこの言葉を紹介したのでした。
年を取れば誰しも布団の上で食べて出して寝るだけになる、でもそれが実に尊いことなのだと話をしました。
それを聞いていた学生さんが一人、この言葉に実に深く感銘を受けたそうなのです。
これからどう生きるか悩んでいたのでした。
この言葉を聞いてホッとした、救われたと語ってくれていました。
何かやり遂げないといけないと追い詰められていたのが、ふっと解放されたように思ったのでしょう。
あたりまえの尊さに気がついてくれたのでしょう。
あたりまえが尊いからといって、ただ何もしないのではありません。
その後彼は、努力して司法試験に合格して今も立派に弁護士を務めていらっしゃいます。
あたりまえの尊さに目覚めて、その喜び、安らぎを根底にもっておいて、日々の努力を積み重ねるのです。
横田南嶺