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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.01.10
今日の言葉

寺が消える?

一月五日の毎日新聞朝刊に、「記者の目」という連載があって、そこに、

「消えゆく地方の寺 後世に記録伝える仕組みを」という題の記事がありました。

題だけみても衝撃的であります。

しかし、これが今の実情なのであります。

記事には写真も載っていて、そこには
「解体前の久昌寺。地域の誇りだった」

と書かれています。

立派なお寺にみえる写真なのですが、それは「解体前」であり、「地方の誇りだった」というように過去形なのであります。

これは愛知県江南市にあるお寺の話であります。

記事に由れば、この寺は、「織田信長の側室にして、最愛の女性とされる吉乃(きつの)が眠る久昌寺」というのだそうです。

しかし、記事には「昨年、取り壊された」とはっきり書かれています。

なんでも由緒のある寺だそうで、記事には「市史などによれば、寺は1384年創建で、地元有力者だった生駒家の菩提寺(ぼだいじ)にあたる。

吉乃は3代当主・家宗の娘。

生駒家の屋敷で暮らしていた時に信長と出会い、側室となった。

後に岐阜城主となった長男信忠と次男信雄、徳川家康の長男信康の妻となった徳姫をもうけたという」と書かれています。

この記事を書かれた記者も、

「私は江南市出身で、こうした話は小学校で習い、遠足でも寺を訪れた。

郷土の誇りと思ってきた。それ故、2021年夏に解体方針が明らかになると衝撃を受けた。」

のだそうです。

そんなお寺がなぜ解体されることになったのか、いろいろの事情があったろうと察しますが、記事では、

なんでも「約60年前から常駐の住職はいなかった」そうで、

また「戦後の農地改革などで収入源を奪われて困窮。

近隣に末寺が八つあるため新たに檀家(だんか)を募るわけにもいかず、寺院経営は立ちゆかなくなった。

そんな中、11年に東日本大震災が起き、市から本堂の耐震化などを求められたものの、資金がなかった。

企業や他の宗教法人に寺の運営を打診したが引き取り先は見つからず、解体が決まった。」という経緯なのであります。

その結果「由緒ある寺だったが、市が保存の可否を検討したのは、解体工事が始まってから。

結局、本格的な調査が行われないまま、姿を消した」のだそうです。

記事には「かつて地域社会のよりどころだった寺は、各地で存続の危機を迎えつつある。

人知れずなくなる前に、歴史的建造物である寺の価値を調べ、後世に伝える仕組みを作れないだろうか」

と書かれていました。

こういう深刻な状況にある寺は、ここだけではありません。

これから十年、二十年と経つうちに、もっと増えるとも言われているのであります。

もっとも経典には、「諸行無常、是れ生滅の法なり」と説かれていますので、寺院といえども、生じては滅することは免れないとも言えます。

それにしても、寂しい話であり、深刻な問題であります。

円覚寺派においても、そのような厳しい現実にあることは変わりありません。

しかしながら、その朝刊がでる前の日の夕刊には、法政大学名誉教授の田中優子先生が、「田中優子の江戸から見ると」に、これまた興味深いことが書かれていました。

田中先生は、コラム記事のはじめに、

昨年12月に田中泯さんの舞踏「外は、良寛。」をご覧になったそうで、「改めて、宗教に身を置くとはどういうことなのか、考えさせられた」というのです。

そして「安倍晋三元首相の銃撃事件以来、宗教に疑いの目を向けるようになった人は多いと思う。

私もうんざりした。」と厳しいご意見を書かれています。

そのあとに、

「しかし古代から江戸時代までの日本人は、信仰心がない人や批判する人はいたが、仏教と縁が無い人はいなかったのである。一体それが生き方とどう関わっていたのか、考えざるを得ない。」

とも書かれていました。

良寛さんというと、いつも子どもたちと遊んで、和歌を作って鞠をついていた方という印象がありますが、田中先生書かれているように、「良寛は禅僧であった」のです。

良寛という人物が生まれた背景に、「外は、良寛。」を書いた松岡正剛氏が、「同じことを繰り返す「不断の禅林生活」にも注目している」というのです。

そのたとえが分かりやすいのです。

記事には、

「ぼんやりしていた子がサッカーを始めたことで自分に目覚める、という現象だ。
大事なのはサッカーに目覚めることではなく自分に目覚めることである。

練習と集中の繰り返しで、潜在している自分が引き出されるのである。」

と書かれています。

そして田中先生は、

「かつての日本人にとって、寺はごく身近にあった。

貧困という事情や、将来に不安な要素を持っている子供が僧堂に入るのは珍しいことではなかった。

そこでは社会とは全く異なる「ものの見方」が得られるものなのだが、しかしそれは繰り返される修行生活の中で、ある日訪れる視野の広がりだったろう。

日本人が宗教を大切にしていたのはそこに真実があるからではなく、自らが解き放たれる契機とその方法があったからではなかったか。」

というのであります。

多くの人を育ててきたという歴史が寺にはあります。

ここでも田中先生は「かつての日本人にとって、寺はごく身近にあった。」と書かれいてるように、やはり過去形なのであります。

なんとかならないかと思っていると、松本市の神宮寺さまから神宮寺の寺報が届きました。

神宮寺報「山河」であります。

今回の寺報では、昨年の秋に行われた新住職の晋山式の記事がたくさん載っていました。

衰退してゆく寺もあれば、コロナ禍中にあっても何百名もの方々が集まって盛大な儀式が執り行われ、地域の人たち、ご縁のある方々の心の拠り所となっているお寺もございます。

やはりそこにいる人の志、願い、気概だと思います。

なんとかこのお寺をもり立てて、人々のためにと願う心が、お寺を発展させてゆくのでありましょう。

神宮寺の晋山式については、昨年九月十一日の管長日記に、「祭りの意味」という題で書いています。

いつも送っていただく神宮寺さまの寺報はすばらしいのですが、この寺報を谷川和尚は地元の檀家さん信者さんのお宅に一軒一軒お配りになっているそうなのです。

郵送でなく、一軒一軒配ってまわる和尚の姿をみると、自ずと信頼もわいてくるでしょう。

鎌田實先生が、「にもかかわらず」という精神が大事だと仰っていたことを、以前この管長日記にも書いたことがあります。(二〇二〇年十二月十五日「にもかかわらず」)

こんな時代「にもかかわらず」やるぞという気概を持ちたいのであります。

本日は臨済禅師のご命日、激動の時代「にもかかわらず」禅を説かれた祖師を思い、こんなことを考えていました。

 
横田南嶺

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