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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.10.23
今日の言葉

やはり、慈悲 – 豊田佐吉記念館を訪ねて –

湖西市の東福寺様で法話会を行った後に、東福寺の和尚様に、同じ湖西市にある豊田佐吉記念館を案内してもらいました。

豊田佐吉については、豊田自動織機の取材を受けた時にも少し学んでいました。

また東福寺の和尚様には、そのころ『障子をあけてみよ 外はひろいぞ 豊田佐吉ものがたり』という冊子を頂戴していました。

昨年の十一月十五日の管長日記にそのことを書いています。

豊田佐吉は、今の静岡県湖西市山口に慶応三年(一八六七)に生まれたのでした。

明治になる少し前のことです。

父親は農家兼大工さんだったのでした。

豊田佐吉は、十二歳で小学校を卒業するとすぐに大工見習いとなったのでした。

利発で器用だったようなのです。

そんな佐吉は、毎日夜中まではた織りをする母を何とか楽にさせたいと思って、物置小屋に閉じこもって、織機の開発に没頭したのでした。

豊田佐吉記念館では、この納屋を拝見することができました。

狭い納屋の中で一所懸命に母の為に、研究していた佐吉少年の姿を思い浮かべました。

そして、工夫を重ね、自力で足踏み式織機を完成させたのでした。

それが豊田式木製人力織機であります。

この機械が展示されているのを拝見させてもらい、更に実際に使って見せてくださいました。

それまで両手で織っていたのを片手でおさを前後させるだけで、織れるようにしたのでした。

これで今までよりも何倍も速く織れるようになったのでした。

佐吉少年は、はたおり機を作って、母に楽をさせてあげたい、村のみんなももっと楽に機織りできるようにしたいと願ったのでした。

木製の人力織機ができたのが、明治二十三年ですので、豊田佐吉が二十三歳の時でした。

その年に東京の上野で内国勧業博覧会というのが開催されました。

外国のすぐれた機械を集めたものでした。

佐吉は、その博覧会の機械を熱心に見てまわり、外国の機械よりももっとすぐれたものを作りたいと思ったのでした。

そして二十九歳で、木製混製動力織機を発明したのでした。

これが日本で最初の動力織機でありました。

一人で三から四台もの運転ができ生産性も二十倍にも上がって品質もよくなったというのであります。

それから更に発明を重ねて、G型自動織機が大正十三年に開発されました。

これが当時世界で最高性能の自動織機で、当時のトップメーカーであったイギリスのプラット社に特許権を譲渡し、その資金で国産自動車の研究開発が進められて、やがて世界の豊田自動車に発展してゆくのでした。

発明の原点は、母を楽にしてあげたいという思いでした。

「孝は百行の本」という言葉があります。

親孝行の思いは、あらゆる善い行いの根本だというのです。

古来、優れた高僧方もみな母思いでした。

円覚寺の御開山仏光国師もまた、母思いで、ご自分の御修行がすんでから、七年ばかりお母さんのお世話をしながら、白雲庵という庵で過ごされました。

三十歳頃から七年間、青年の最も気力体力あふれるときに、お母さんのお世話をして過ごされたのです。

これは母思いでなければ出来ないことです。

和歌山県の由良町にある興国寺の開山、法灯国師もまた母思いでは知られています。

六十歳になって、自分の母が年老いていることを知って、和歌山の興国寺からはるばる、長野の神林をいうところまで迎えに行かれます。

六十歳の国師が、高齢の母の手を引いて、あるときは背負いながら、長野から紀州和歌山の興国寺まで連れて帰りました。

お寺のすぐ門前に庵を建てて、そこに住んでもらい、国師は毎日庵に出かけては、孝行を尽くされたと伝えられています。

高齢のためお母さんはわずか一年ばかりでなくなりますが、その庵を寺にして、そこにお母さんのお墓を建てて、なんと法灯国師は、九十歳でお亡くなりになるまで、毎朝それも裸足で、お母さんのお墓参りを欠かされなかった伝えられています。

母を思って発明をされた豊田佐吉の話を聞いて、そんな高僧方のことも思い起こしました。

今回は、特別にお願いして豊田佐吉記念館の方にご案内してもらいましたので、普段見られないところまで丁寧に拝見させてもらいました。

豊田佐吉が四十歳の時に両親の為に建てたという母屋も拝見しました。

お仏壇にもお参りさせてもらい、床の間に「百忍千鍛事遂全」の軸が掛けてあるのも拝見しました。

百の苦難を耐え、千の鍛錬をすればどんなことでも達成することができるという意味であります。

母屋では、「障子をあけてみよ 外はひろいぞ」と言ったその部屋も拝見することができて感慨深いものでありました。

豊田佐吉はアメリカやヨーロッパにも行って見聞を広めて新しい織機を発明したのでした。

そんな体験から、まわりの者には口癖のように
「障子をあけてみよ、外はひろいぞ」と言っていたというのです。

そしてアメリカやヨーロッパに行って町を走り回る自動車に佐吉は驚いたのでした。

更に大正十二年関東大震災があったときには、外国の自動車が大いに活躍していたのでした。

そこで、佐吉は息子の喜一郎に、これからは外国に負けない自動車を作らないといけないと言って、自動車づくりの会社を作るように言ったのでした。

母を楽にしてあげたいという思いから、自動織機が発明されて、震災で困っている人たちを見て自動車を作るようになって、今日の世界でも有名な豊田自動車に発展していったのでした。

その原動力は豊田佐吉の人の苦しみを抜き、楽を与えたいという慈悲心から始まっているのであります。

やはり慈悲の心は大きな力を持つのだと改めて学びました。

 
横田南嶺

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