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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.10.25
今日の言葉

無二無三

人は平等なのか、差別があるのか。

本来平等であるのに、差別があるというのは仮の姿なのか、差別があるのが本当で、平等というのは仮の理想に過ぎないのか、修行道場での講義の折に、こんなことについて語り合いました。

平等だという意見もありましたが、やはり差別があるのが現実だという意見が多かったようです。

この平等と差別の問題は、仏教でも長い論争の歴史のある難しい問題でもあります。

「無二無三」という言葉があります。

『広辞苑』には

「①〔仏〕法華経に説く、成仏の道はただ一乗であって、二乗も三乗もないこと。また、第2・第3のものがないこと。無二亦無三。

②ただ一つだけで他に類のないこと。唯一無二。

③脇目もふらず、ひたすらなさま。しゃにむに。」

という意味が書かれています。

白隠禅師の坐禅和讃にも「無二無三の道なおし」という言葉がでています。

二というのは、声聞と縁覚です。

声聞というのは『仏教辞典』によれば、

「サンスクリット語は、教えを聴聞する者の意で、原始仏教経典では出家・在家ともに用いられている。

門弟や弟子の意で用いられることはジャイナ教でも同様であるが、仏教では後になると出家の修行僧だけを意味し、阿羅漢(あらかん)を目指した。」

と解説されています。

「縁覚」というのは、同じく『仏教辞典』には、

「サンスクリット語あるいはその俗語形から<辟支仏(びゃくしぶつ)>とも音写される。新訳では<独覚>と漢訳されるように、師なくして独自にさとりを開いた人をいい、仏教のみならずジャイナ教でもこの名称を用いる。

十二因縁を観じて理法をさとり、あるいはさまざまな外縁によってさとるゆえに<縁覚>という。」

と解説されています。

大乗仏教では、声聞も縁覚も、自己中心的なものと考えるのであります。

それに対して、「菩薩」を加えると三乘になります。

「菩薩」は、『仏教辞典』には「悟り(菩提)を求める衆生の意味であると解釈される。

もともとは、仏伝文学において成道以前の釈尊、特にその前生のことを指す言葉であった。

釈尊が前生においてなしたとされる、特に自己犠牲を中心としたさまざまな行が六波羅蜜として組織されて、大乗仏典へと受け継がれていくこととなる。

部派仏教においては、このような<菩薩行>を完成して成仏しうるのは釈尊のような極めて限られた人のみとされていて、一般の修行者が目指し得る現実的な目標は阿羅漢もしくは縁覚だとされていたのであるが、

この菩薩行の可能性をすべての人に解放したのが大乗仏教であった。

したがって、大乗仏教においては、最高の悟りを求める心(菩提心)をおこして、自らの修行の完成(自利)と一切衆生の救済(利他)のために六波羅蜜を行じて成仏を目指す人はすべて<菩薩>なのである。」

ということであります。

自利と利他の為に六波羅蜜を行じるというところが大切であります。

『法華経』では、「無二無三」と説かれていて、二乗もなく三乗もないというのです。

これは「譬喩品」の中にある例え話がもとになっています。

とある長者が大きな家を持っていて、その家が火事になったのでした。

その中でまだ子どもたちは遊びほうけていて、火事だと言っても逃げようとしないのです、

火事ということが分かっていないのです。

そこで長者は「子どもたちよ。わたしはいろいろな種類のおもちゃをもっている。羊の車、鹿の車、牛の車だ。

いま、門の外においてあるから、出ておいで。

そして、自分の好きな車を選びなさい。」

と言いました。

いつの時代にも子どもというのは、おもちゃに目がないものです。

子どもたちは、お父さんの言葉を聞いてすぐに争うように、邸宅を走り出て空き地にたどり着き、辛くももろもろの災難から逃れることができたという話です。

子どもたちが「羊の車、鹿の車、牛の車」を頂戴というと、長者は、大きな白い牛に引かせて素晴らしい車を与えたのでした。

この白い牛に引かせた素晴らしい車を「露地の白牛車」と申します。

そしてお釈迦さまは、自らを長者になぞらえて

「生きとし生けるものはすべて、わたしの子どもなのです。

生きとし生けるものはみな、俗世の愛欲に執着して、真理を見抜く智恵をもっていません。

三界には、ほんとうの安心はありません。まるで、猛火につつまれた家のようなものです。ありとあらゆる苦しみでいっぱいで、じつに恐ろしいところです。つねに、生老病死という苦しみに悩まされています。これらの苦しみが猛火となって、いつまでも襲いかかってくるのです。」(『現代日本語訳 法華経 正木晃』春秋社より)

と説かれたのでした。

『法華経』では羊、鹿、牛の車に喩えた三乗の教えは、仮の教えであって、真実は一乗にあると説くのであります。

「露地の白牛」とは、『禅学大辞典』には、「法華経譬喩品で一乗の教えを白牛に喩えいていることから、一点の煩悩の汚れもない清浄な境界をいう」と解説されています。

露地とは、上に覆うもののない青天井の土地です。

屋根などのおおいがなく露出した地面のことを言います。

そこから平安無事なところ、煩悩を離れた境地を表わします。

後にこの言葉は、草庵式茶室の庭園に使われるようになりました。

「白牛」は清浄な牛のことです。

朝比奈宗源老師は、坐禅和讃の講話の中で、

「ズバリッと言うと、一乗が本当です。

私が仏心一つだというのが、一乗の意味であります。

一乗ということは、今までの列車のように、一等とか二等とか三等、そんなクラスはない。ノークラスです。

全部一つの乗りものだ、全部仏心に貫かれて居る人間であるという事です。

これが仏教の大事な考であります。

「無二無三」と言うのは、此所から出た。二もなく三もなし。禅は言うまでもなく一乗の立場をとっている。」

と説かれています。

誰しもが乗れる素晴らしい乗り物が、大乗の教え、一乗の教えなのであります。

天台や華厳の教えでは、三つに分けたのは、人々を導くための仮の教えであって、真実は一乗だと説きました。

こちらはみんな平等に仏になれるという、平等の一面を強調したのであります。

それに対して法相の教えでは、三つに分かれているのが真実であって、一乗の教えは、どの道に進んでいいか定まらない人の為に仮に説かれた教えだと言われていました。

こちらは現実の差別を重視した見方であります。

現実の差別を見据えて考えるか、平等という理想を掲げて考えるかの違いがあったのだと思いますが、こういう論争を経て今日の仏教があるのです。

 
横田南嶺

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