心が作り出す世界
地獄、極楽についての逸話であります。
とある侍が白隠禅師に問いました。
「禅師よ、地獄、極楽などというがそれは一体どこにあるのか、ほんとうにあるのか」と。
すると白隠禅師は。
「武士であるのに、地獄、極楽も知らぬとはなんということか、それでも武士か」と罵りました。
しかも何度もその侍を馬鹿にしたものですから、とうとう、その侍も堪忍袋の緒が切れて腰の刀に手をかけて白隠禅師に迫りました。
逃げる白隠禅師を追い詰めて、とうとう刀を抜き放った、その時に、白隠禅師は、ひとこと、
「そこが地獄じゃ」と。
ハッと我にかえったその侍はその場に手をつき
「失礼しました。ご無礼の段、平にお赦しを」というと、白隠禅師は間髪を入れず
「そこが極楽じゃ。」
と破顔大笑されたという話であります。
地獄も極楽もわが心が作り出すという譬え話であります。
白隠禅師のお弟子の東嶺和尚に「入道要訣」という書物があって、修行僧達と共に学んでいます。
そのはじめに、
「お互いの心の本性は佛さまも我々も同じなのですが、その心の指し示す方向によって、違いが出てくる」
と説かれています。
「佛は内に向って本心を照し玉ふ。
衆生は外に向き、萬境に亘る。」
というのです。
そこで
「故に愛する物に貪慾を起し、憎む者に瞋恚を起し、思ひ凝て愚癡となる。」
ということになります。
「此の三毒の性に迷ひ昧されて、本心をも失へり」ということになってしまうのです。
「貪慾深きものは餓鬼となり、瞋恚深きものは修羅となり、愚癡深きものは、畜生となりて、三毒齊ものは、地獄に墮て、種々の苦みを受く」というのであります。
東嶺和尚も「是を四惡趣と云う。恐るべきの至りなり。」と仰せになっています。
「貪瞋癡あれども、自誡め、恣にせざるものは、人間なり。
生々此の身を失はず。貪瞋癡漸しずまりて、誡めざれども、恣ならざるものは、天上に生る」ということになります。
要するに、貪欲の深いのが餓鬼となり、瞋恚の深いのが修羅になり、愚癡の深いの畜生となります。
貪瞋癡の三毒が深いのが地獄になるというのです。
そして貪瞋癡があっても自ら戒めることができて、ほしいままにすることがないのが人間だというのです。
更に貪瞋癡が静まったのが、天上界なのだということです。
地獄というと、よく閻魔様の裁きを受けて連れて行かれると教えられますが、何も閻魔様のお裁きを待たなくても、私たちの心が地獄を作り出しているというのです。
嗔り腹立ち妬み憎しみ、これらの心が地獄を作り出します。
白隠禅師に尋ねた武士のようにかっと腹を立てて我を忘れて心火逆上してしまっては、これは地獄です。
今日新聞の社会面でも見ますと毎日のように地獄の様相が報じられております。
餓鬼と言うのは、貪りです、貪欲です。
どこまでも満足せずに欲しがる心です。
食べるもの着る物について、もうこれで十分だと満足しないのが餓鬼の心です。
足る事を忘れてもっと食べたい、どんどんおいしいものを求めて行く、これは餓鬼であります。
ブランド物を欲しがったりしますが、こういう人はそれを手に入れたらもうすぐに次のものを欲しがるのであります。
満足しない心が餓鬼です。
食べ物着る物のみならず、様々なものを求めて欲しがります。
快楽であったり財欲や名誉なども欲しがります。
お金が欲しいというのも、これで十分とはなかなかいかないようです。
持てば持つほど欲しがるような気がします。
歯止めが利かないのです。
餓鬼の世界はわたしたちの心が作り出します。
仏教では、このようにお互いの心のありさまを説いています。
私たちの心が地獄のような心にもなりますし、逆に静かでやさしい佛様の心にもなります。
それはたとえていえば、水のようなものであります。
川が氾濫すると大きな水害を起こします。
その川も静かにおさまっていれば、大地を潤し、農作物を育て、人の飲み水にもなるのであります。
お釈迦様はこの川の水をととのえるように心をととのえよと教えられました。
川があふれたり氾濫したりしないようによく治めて、きちんと水道の蛇口を通して出るようにすれば、その水で私達は暮らして行くことが出来ます。
水も上手にととのえて使えば、必要な時に飲み水にも使えますし、それで料理にもつかえます。
草や木にかけて上げることも出来ます。
洗濯にも使えますし、お風呂にも使えます。汗を流したり、疲れをいやすこともできます。
心を調えて貪欲や怒りにまみれないようにするには、少しものの見方を変えてみる事です。
ずっと以前のノートに十七歳の女子高校生の方が新聞に投書をしていたのを発見しました。
私たちの心の置き所の樣子を上手に書かれていました。
「私は花の女子高生であるにもかかわらず、毎日の平凡さと物足りなさに嫌気がさしていた。
そんなある日私はふと思った「生きていられる事に感謝を・・・」
彼氏が作れないだの、パソコンが欲しいだの、やせたいだのブランド物グッズを買いたいだの。
私は自我の欲求に心を奪われ、生きていられることの素晴らしささえ見失っていたのだ。
でもその事に気付くことが出来た日から私には、いろんな楽しさや素晴らしさが見えてきた。
学校に通えるありがたさや、友達とペチャクチャおしゃべりしている時間の大切さ、帰る家もあたたかい家族もいることの幸せなど、数え上げれば切りがないほどだ。
これらはあたり前のように毎日を過ぎて行くが、わたしはあたり前のことと思わず、その幸せさを感じては、うっとりとしている。
なにやらあわただしく過ぎていく毎日だが、少し手を休めて、日常生活に潜んでいる多くの宝物を見つけ出し、うっとりするのも悪くないだろう。」
というのであります。
こんな「生きていられる事に感謝を」という心を持てば、どこにいても極楽となるのでありましょう。
古いノートを見てて改めて思いました。
横田南嶺