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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.07.21
今日の言葉

こだわりのない人の大らかさ

お寺の業界紙というのがあって、それに目を通していると、「廃寺を高齢者サロンや宿坊に」という見出しが目に入りました。

『寺院消滅』(鵜飼秀徳著)という衝撃的な題名の書籍が出版されたのは、もう七年ほど前のことであります。

これから寺院の三割から四割ほどが消滅の危機にあるとも言われています。

先日、花園大学百五十周年記念講演で、ソフトバンクの宮川社長と対談した折には、わたくしは地方のお寺や神社というのは、そう簡単に無くなるものではないと申し上げました。

特別な布教活動をしているか、いないかに関わらず、お寺や神社はそこに存在していることに意味があり、不思議と地元の人たちに守られてきていることを申し上げたのでした。

対談の折には、お祝いの場でもあるので、あまり深刻な話題は避けるようにしたのですが、地方においては、そのお寺や神社を守る人が減っていっているのであります。

もはや守れないという状況になっているところも出てきているのが現状なのであります。

そこで寺が廃寺となってしまっているのです。

その廃寺になったところを、ある地方においては、高齢者の為に認知症予防のサロンにしているとか、宗教法人は解散したけれどもなんとか伽藍だけを残したいといって、「宿坊」にしているところもあるというのであります。

複雑な思いで読んでいたのですが、ふと湧いた疑問が、廃寺になったのを高齢者サロンや宿坊にするのであれば、廃寺にせずにお寺をサロンや宿坊にするという発想はなかったのかと思ったのであります。

もちろんのこと、いろんな状況があって、そのようなことになったのでありましょうが、発想の転換もあり得たのではないかと思ったのであります。

お寺は檀家のもの、伝道布教の場であるというのは当然のことですが、いろんな伝道布教もあるのではないかと思います。

お寺は「かくあらねば」とあまりこだわりすぎるのも考えものではないでしょうか。

般若経で説かれる「空」の教えは、「こだわらない、とらわれない」ということを説いています。

とらわれない、空を説くのには、いろんな譬喩があります。

『ダライ・ラマの仏教入門』には、馬車の喩えが出ています。

一部を引用します。

中観帰謬論証派によって提示された教えであります。

「帰謬派は、たとえば、馬車はその部分に依拠して仮に設定されたもので、その部分のなかには馬車というものの実体は見出せないように、人は「心身を構成する五つの集まり」に基づいて仮に設定されたもので、これらの要素のなかに、人という実体はどこにも見出すことはできないと説きます。」

と説くのであります。

馬車があるとします。

しかし、馬車という実体はないというのです。

どういうことかというと、その馬車がそれぞれの部品で出来ています。

どの部品を取り出しても、それが馬車だと言えるかというと、そうではありません。

馬車を解体すると様々な木の板や、輪になります。

その部品が馬車かというとそうではありません。

それらの部品が集まって、仮に馬車と呼ばれ、馬車として使われてるだけです。
馬車であっても動かなくなって粗大ゴミに出されていれば、もはや単なるゴミでしかありません。

それを細かく分けて薪にすれば、薪となるでしょう。

部品に分けて、それを新たに組み立てて机になるかもしれません。

寺の本堂でも同じなのです。

寺の本堂を解体してその柱や梁をとり出して、これが本堂かというとそうではありません。

本堂ではない様々な部品が集まって仮に本堂として使っているので、本堂と呼んでいるに過ぎないのです。

宿泊施設に使うこともあれば、講演会場になることもあるのです。

『ダライ・ラマの仏教入門』には、
更に「このように「私」に始まってあらゆる事物は縁起のうえに仮設されたものなのです。

したがって、「空」ですら実体としては存在せず、仏陀の悟りも同じく実体としては存在しないのです。

あらゆる現われや生起する事物はただ独立して存在しているように見えているだけなのです。」

と説かれています。

すべては変化するというのが真理ですので、お寺の建物も変化します。

やがて消滅するのも真理でありましょう。

しかしながら、もっと空であることを学べばいかようにも自由に使い活用することもできるのではないかと思うのであります。

こうでなければとこだわると却って自らを苦しめることもあるものです。

自己というのも、同じように実体はないのです。

体を部品に分ければ、どこにも自己というのは存在しません。

手や足やいろんな部分や、記憶や経験の集合を仮に自分と思い込んでいるにすぎないのです。

これが「無我」の教えであり、空の教えでもあります。

先日花園大学で講義をした折には、トンネルの喩えを示しました。

トンネルを描いてみてくださいというと、まず地面を描いて、それから丸い壁を描いて、その上に「何々隧道」という看板を描いて、山を描いたりします。

それで確かにトンネルに見えます。

しかし、地面も壁も、山もどれも実はトンネルではありません。

トンネルのまわりに過ぎないのです。

トンネルの本質は空っぽの状態にあるのです。

そして空っぽだからこそ、自由に人や車が出入りできるのです。

自己はトンネルのようなものだというのであります。

五蘊という要素から成り立ちますが、その本質は空っぽなのであります。

そしてその空は単なるむなしいことではなく、空からは自由が生まれます。

妙心寺の管長も務められた倉内松堂老師は、無尽蔵と題して、

無心にはたらく人の 輝き
邪気のない人のすがすがしさ
戦わない人の 安らぎ
勝ち負けのない人の 強さ
思い込みのない人の 正しさ
野心のない人の 静けさ
幻想のない人の 爽やかさ
こだわりのない人の おおらかさ
とらわれのない人の 大きさ
なにもない人の 豊かさ

と説かれました。

こだわりのない人の大らかさというものもあるものです。

そして何もないからこそ豊かであるというのが空の教えであります。

 
横田南嶺

こだわりのない人の大らかさ

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