念ずれば花ひらく世界 – 岡山県高梁市成羽美術館講演 –
その成羽美術館で、今月の九日から九月四日まで、「念ずれば花ひらく 詩人坂村真民の世界」という特別展が開催されているのであります。
その記念講演会の講師を頼まれたのでした。
この企画も、もともとは2020年の七月に行われるはずでありましたが、二年越しの開催となったのでした。
岡山駅から、出雲行きの在来線に乗り換えて高梁駅に降りました。
駅には、成羽美術館の澤原館長が出迎えてくださいました。
成羽というところは、かつてべんがらの生産が日本一であったという話をうかがいました。
高梁川というきれいな川が流れていて、その川に沿って成羽美術館にまいりました。
美術館は、有名な建築家である安藤忠雄さんの設計で、建物自体が芸術でありました。
中に入っても少し歩くと、自分がどこにいるのか分からなくなる感じでありました。
美術館には、坂村真民記念館の西澤孝一館長と、真美子夫人がすでにお越しになっていました。
ざっと展示を拝見して、講演に臨みました。
講演は九十分、たっぷりと真民先生の詩の世界について話をしました。
展示については、実に多くの詩作品があって、圧倒されました。
坂村真民記念館も広いのですが、もっと広い美術館なので、見応えが十分ございます。
それからありがたいことに、わたくしが書かせていただいた、真民先生の詩も、一部屋展示してくださっていました。
そもそもこの特別展はひとえに成羽美術館の澤原館長の強い思いによって実現したのでした。
かつて成羽美術館では相田みつを先生の展覧会を二度ほど開催されたことがあるそうなのです。
数年前に相田みつを美術館で、坂村真民先生とのコラボ展示が行われて、それをご覧になって澤原館長が、坂村真民展を開催しようと思われたのでした。
坂村真民記念館以外で、これほどの真民展が行われるのは、恐らく初めてではないかと思いました。
相田みつを先生は、書家でありますので、沢山の書作品が残されています。
それに対して真民先生は、あくまでも詩人であり、書にされているのは頼まれ書いたものが多いのであります。
ですから書作品の数は、相田みつを先生に比べると多くはないのであります。
そんな事情もあって、わたくしが円覚寺の黄梅院の掲示板に書いていた詩や、記念館に寄贈した、わたくしが書いた真民詩をたくさん展示してくださっていたのでした。
一カ所で展示されているのを見ると、こんなにも書いたのだと改めて思いました。
坂村真民記念館で講演するのとは異なり、今回は岡山県高梁市というところで話をしますので、真民先生のことをあまり知らない方にも分かるように話して欲しいということでありました。
ですからそもそも真民先生の詩とはどういうものなかというところから話を始めました。
会場はほぼ満席でありがたかったのですが、会場には西澤夫婦も見えていますので、いささか緊張して話をしました。
まず、真民先生の
「わたしが詩をつくるのは人間らしい人間として生きたいからだ」(『致知』二〇一四年四月号)という言葉を紹介しました。
人間らしい人間として生きる、そのために詩を作る、これが真民先生の詩であります。
人間らしく生きる、簡単のようで難しいことです。
人間らしからぬ事件を耳にするにつけてしみじみ思います。
そして人間が人間になる、人間らしく生きることはそのまま仏道にもつながりますし、仏道そのものとも言えましょう。
そして最初に紹介した詩は、「一人でもいい」でありました。
一人でもいい
わたしの詩を読んで
生きる力を得て下さったら
涙をふいて
立ちあがって下さったら
きのうまでの闇を
光にして下さったら
一人でもいい
わたしの詩集をふところにして
貧しいもの
罪あるもの
捨てられたもの
そういう人たちのため
愛の手をさしのべて下さったら
真民先生が六十代の前半に作られた詩であります。
こういう思いをもって詩を作られたのであります。
単なる現代詩とは趣を異にしています。
それから真民先生にとって一番大切な詩である「念ずれば花ひらく」を紹介して、この詩の背景、真民先生のお母様の思いをじっくりと語りました。
念ずればの念というのが、自分の命にかえても我が子を守り育てようという母の強い思いであり、願いなのであります。
そしてその念が真民先生をはじめ五人の子どもを無事に育て上げ、更に亡くなったあとも五人の子たちを守り続けて、母の三十三回忌にも五人は皆元気にそろったのでした。
そこから家族への深い愛情について語りました。
そして、更に四十代で禅に傾倒されたこと、五十歳になって一遍上人との出会いがあり、一遍上人の願いを受け継いで、詩を多くの人に配ろうと発願されたことにふれました。
そして五十三歳の時に森信三先生に出会い、「詩国」という詩誌を発行し多くの方に配ろうと決意されたのでした。
また岡山県は黒住教の地でもありますので、真民先生と黒住の教えについても触れました。
真民先生の詩には、「光を浴び、光を吸う」ということがよく出てきます。
「初光吸引」というのであります。
この光を吸うというのは禅の教えにはありません。
これがどこから来たのか、長らくわたくしには分かりませんでした。
黒住宗忠の教えを学ぶと光を吸うということが出てきます。
果たして黒住宗忠となにか関係があるのか、分かりませんでしたが、西澤館長にお調べいただいたところ、真民先生の「詩記」に黒住宗忠のことが書かれていると教わったのでした。
西澤館長は膨大な真民先生のノートを調べてくださったのでした。
真民先生は、自費出版の詩集を出していた頃、その印刷会社の社長が黒住教の信者だったことから、黒住教に関心を持たれたようなのです。
真民先生は、その社長の素晴らしい人格に接して、この方がどこか違うのは、黒住教による感化のゆえだと思われました。
そして昭和三七年に黒住宗忠伝を学ばれたのでした。
そこで真民先生は『詩記』の中で 「黒住宗忠伝は、私に大きな変化を与えた」 「黒住宗忠はわたしの血の中にある根源的なものをよみがえらせてくれた」とおっしゃっています。
黒住宗忠の伝記を学んで、太陽お日様の光を吸う大切さを知ったのです。
しかしながら、当時お住まいになっていた宇和島の家からは朝日を拝むことは難しかったらしく、5年後に砥部町に移り、重信川のそばにお住まいになって、そこで毎朝重信川の河原や橋で朝日を拝み、その光を吸うということをなさるようになったのでした。
そこで、一遍上人に憧れて捨てて捨てて、なにもない無の祈りに徹してこそ真に明るい生き方が出てくるようになることを話しました。
明るい心で
明るい心で
明るい顔で
接してゆこう
暗ければ
暗いほど
元気を出して
明るい方を目指して
生きてゆこう
天に
星が輝いているではないか
道のべに
花が咲いているではないか
空に
鳥が飛んでいるではないか
しっかりしろ
しっかりしろと
せみたちが鳴く
けんめいに鳴く
最後には、「二度とない人生だから」と「バスのなかで」という詩を朗読したのでした。
講演のあとは、岡山まで戻り、黒住教の本部にお参りさせてもらいました。
黒住教の第六代教主さまにお目にかかることができました。
ありがたい高梁の成羽美術館の講演でありました。
横田南嶺