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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.06.26
今日の言葉

がまんは我慢になる?

がまんするのはよいことなのか、がまんをすべきなのか、修行僧達に質問してみました。

ある修行僧は、「時と場合による」と答えました。

何人かの修行僧に聞いても、がまんしなければならない時、無理にがまんするのは良くない場合があるという答えが多かったのでした。

がまんはよくないという意見もありました。

では「がまんとしんぼう」はどう違うのかと質問してみました。

がまんは強制的にさせられるものであるけれども、しんぼうするのは自主的だという答えがありました。

修行はがまんすることなのかというと、ある程度はがまんしなければならない一面もあります。

お腹が減ってもがまんしなければならないことがあります。

いつでも好きなだけ食事ができるわけではありません。

多少足が痛くてもがまんしなければいけない時もあります。

あまり無理にがまんするのはよろしくないとしても、ある程度はやむをえないのも修行道場であろうかと思います。

しかし、このがまんは問題だと思うのであります。

結論から申し上げますと、がまんが我慢になるからだということです。

我慢ということばを『広辞苑』で調べてみると、

一番目に「自分をえらく思い、他を軽んずること。高慢」という意味が書かれています。

二番目に「我意を張り他に従わないこと。強情」とあります。

三番目が「耐え忍ぶこと。忍耐」という意味が書かれています。

ふつう一般にがまんするというのは、三番目の耐え忍ぶことという意味で使われています。

我慢は、自分をえらく思い他を軽んじることなのです。

修行僧たちに、地球ワークを体験してもらって、地球四十六億年を四,六キロに見立てて歩くということを行ってもらいました。

私たちは、ふだん何気なく暮らしていると、この地球上の生命の中では、頂点にあるように思っています。

人間中心の世界観を持ってしまっています。

しかし、地球四六億年の歴史を一年三百六十五日に当てはめてみると、人間が現われたのは十二月三十一日午後十一時四十分頃なのです。

終わり頃なのです。

産業革命が起こったのが、午後十一時五十九分五十八秒なのであって、たった二秒しか経っていないのです。

地球の歴史から見れば、実にほんの一部分にしか過ぎないのです。

地球ワークを体験すると、自我意識が強くなるか、弱くなるかと質問してみると、皆が弱くなると答えていました。

ここが大事なところであります。

禅の修行も坐禅して自分と天地自然とは一体であると体験するのであります。

しかしながら、それはがまんして坐禅して体験をしますので、やっかいなことに、自分は「天地自然と一体になった」という我慢が生じてしまうことがよくあるのです。

リラックスして楽しみながら山を歩いて、大自然の一部だと感じるのでは自我意識はうすらいでゆきます。

がまんして頑張ると我慢が強くなってしまうのであります。

このあたりが難しいところなのです。

修行の盲点とでもいうべきところであります。

ちなみに「辛抱」というのは、『広辞苑』で調べると、

「(一説に、「心法」からという。「辛棒」と書くのは当て字)

つらさをこらえしのぶこと。忍耐。また、つらい仕事でも我慢して勤めること」と書かれています。

心の法と書く心法を調べると、

仏教語として「心に属するもの。心のはたらきの総称」とあり、色法に対するものという解説があります。

また更に

「心を修める法。心の修養。心がけ。転じて、つとめはげむこと。また、がまんすること。聞上手」

「宋の儒学で、心の体用を存養省察する道をいう」という解説があります。

心の法と書いた心法が、心の修練という意味で使われ、心の修練のひとつとして耐え忍ぶことがあり、そこから辛いことを抱えるという漢字をあてて「辛抱」になったという説があるそうです。

がまんが「我慢」になっては困るのですが、我慢を『仏教辞典』で調べると、

「煩悩の一つで、強い自我意識から起こる慢心のこと」と明記されています。

この我慢はよくありません。

更に

「仏教では自己を固定的実体とみてそれに執着すること(我執)から起こる、自分を高く見て他を軽視する思い上がりの心を<慢(まん)>と呼び、このような心理状態を分析して三慢・七慢・九慢などを説く」

とあります。

「我慢はこの七慢の中の一つとして数えられる。

現代の日本語で、自己を抑制する、たえしのぶの意に用いられるのは、我意を張る、強情の意を介した転義で、近世後期からの用法らしい」というのです。

がまんが耐え忍ぶこととして使われるのはそんな古いことではないのです。

我慢はよくありませんが、「忍辱」は大切にされています。

忍辱は六波羅蜜の一つであります。

『仏教辞典』にも

「あらゆる侮辱や迫害に耐え忍んで怒りの心をおこさないことで、これを修行実践することによって、すべての外からの障害から身を保護することができるので、「忍辱の衣(ころも)」「忍辱の鎧(よろい)」〔法華経法師品、勧持品〕といわれる。」

と書かれています。

がまんが「我見」の増長になっては困るのであります。

我見は自分中心のかたよったものの見方なのです。

「一切衆生は皆我見を起す。我見を根本として貪瞋癡(とんじんち)の三毒を起すなり。三毒を起すを衆生と名づく」という言葉があって、我見から貪りや怒りが起きるのであります。

まずはこの我見に気がつくことが修行の第一歩なのです。

我見我慢を減らしてゆくにはどうしたらいいのかを工夫しないといけません。

我慢して修行することが我見の増長にならないように心しないものです。

 
横田南嶺

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