達磨さまの言葉
外、諸縁を息め、
内心、喘ぐこと無く
心、墻壁の如くにして
以て道に入るべし。
というのがあります。
達磨大師の画の讃に書かれることもある言葉であります。
景徳伝灯録巻三には、達磨大師が二祖慧可に伝えたのがこの言葉であると書かれています。
白隠禅師の臘八示衆の第四夜にも、初祖大師曰くとして、この言葉が書かれています。
まず、外に向かっては諸々の縁をやめるということですが、縁とは何か、『仏教辞典』には、心識が外的な対象を認識する作用のことだと書かれています。
外に向かって、心が対象物を認識するはたらきをやめるということであります。
これは具体的にどういうことかといえば、天台小止観にある「呵五欲」にあたるのではないかと思います。
色=目を刺激するものから離れること。
声=耳を刺激するような音から離れること
香=鼻を刺激するような香りから離れること。
味=味覚を刺激するようなものから離れること。
触=身体に触れる快感や不快な思いから離れること。
の五つであります。
私たちは、外界から様々な情報を取り入れていますが、この五つに尽きるのであります。
神道にも「身中祓詞」といって、
目に諸の不浄を見て
心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞きて
心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅ぎて
心に諸の不浄を嗅がず
口に諸の不浄を言いて
心に諸の不浄を言わず
身に諸の不浄を触れて
心に諸の不浄を触れず
意に諸の不浄を思ひて
心に諸の不浄を想はず
というのがあります。
これは六根になっていますが、そのうちの五根、眼耳鼻舌身のことを言っています。
坐禅中は、目を開いていますが、何かを見ようとはしません。
ただ鏡にものが映るように、目に映るだけにしています。
耳も、何かを聞こうとはしません。
ただ鏡にものが映るように、耳に聞こえるだけにします。
鼻も同じであります。
坐禅中は、なにも食べませんので、口の中で何かを感じることはありません。
からだというのは皮膚感覚ですが、暑いとも寒いとも思わないのであります。
今の季節になるとたとえ蚊が飛んできても、なにも感じないようにするのであります。
内心喘ぐ無しというのが難しいところであります。
喘ぐというのは、喘息の喘という字であり、「はあはあと短い息づかいをする。または短い息づかい」をいいます。
山本玄峰老師が、『無門関提唱』の中で、
「魚などパッと口を開けて水を飲む。エラをパツパツと動かして水を吐く。
人間も何かで忙しく走ってきて、ハッハッと息切らして走っておるようなことのないように、内心喘ぐことなく、」
と解説されていますように、息せき切った様子だとわかります。
内心喘ぐとは、具体的にどういうことをいうのかと考えてみました。
道元禅師が如浄禅師から示された教えに、
「身心脱落とは坐禅なり。
祇管に(ひたすらに)坐禅するとき、五欲を離れ、五蓋を除くなり」(『宝慶記』)という言葉があります。
外、諸縁を息めというのが、五欲を離れることであれば、内心喘ぐこと無しというのは、五蓋を除くことではないかと思うのであります。
外に対しての心のはたらきをやめたならば、心の内から起こってくるのは、この五蓋だと思います。
五蓋は、岩波書店の『仏教辞典』によると、
「五種類の心をおおう煩悩のこと」であって、
「蓋というのは、おおうもの、障害の意」なのであります。
五つというのは、
第一に貪欲です。
第二に瞋恚です。怒りのことです。
第三に惛眠と申します。
これは「身心が重苦しい状態の惛沈(こんじん)と心の眠気や萎縮をさす睡眠(すいめん)」のことを言います。
惛沈というのは「心の滅入ること、ふさぎこむこと。心を沈鬱な不活発の状態にさせる心理作用。また、そのような状態」です。
第四に掉悔(じょうけ)です。
これは「心のざわつきの掉挙(じょうこ)と心を悩ます後悔」のことです。
そして五番目に疑。疑いやためらいであります。
こういうものが、心の内から湧いてくるのであります。
このようなものが覆い被さってしまい、心が息切らした様になって喘いでしまうのであります。
これらを棄てるにはどうしたらよいか、それには、やはり強い心で、腰骨を立てて、下腹に気力を充たしめて、ゆっくり呼吸して、一呼吸一呼吸、これらを払いのけるつもりで取り組んでゆきます。
その様子が、「心、墻壁の如く」というのであります。
墻壁の墻は「かき。へい。石や土で築いた細長いへい」のことで、「牆壁」は、「かこいの土べい」であります。
なにものも寄せ付けない譬です。
墻壁のようにするには、五つを調えることであります。
五つとは、
調食 適度な食事をとること
調眠 適度な睡眠をとること
調身 身体を調えること
調息 呼吸を調えること
調心 心を調えること
の五つであります。
そして仏道を行じてゆくのであります。
仏道を行じるというのは、行五法になると思います。
欲=仏道を願い求める事
精進=努力をすること
念=悟りを得ることを念じ続けること
巧慧=巧みに智慧をはたらかせること
一心=心を一つにして専念すること
の五つなのであります。
そこでここに天台小止観で説かれる二十五方便があてはまると思います。
まず五縁が前提となります。
五縁というのは、
戒律を保ち正しい生活をすること、
適度な衣食で心身を調えること、
喧騒を離れ、静かで心が落ち着く環境を調えること、
世間のしがらみや情報過多の生活から離れること、
よい師や仲間を得ること
の五つであります。
これがもとになって、呵五欲、棄五蓋、調五事、行五法となります。
外、諸縁を息めるのが呵五欲、内心喘ぐ無しが棄五蓋、心墻壁の如くが、調五事、以て仏道に入るべしが、行五法に当たるとみるのであります。
達磨大師の言葉を天台小止観の二十五方便にあてはめて味わうことができると思いました。
横田南嶺