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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.05.27
今日の言葉

味噌と醤油と

我々臨済宗の修行の特徴に禅問答というのがあります。

よく訳のわからぬことを禅問答のようなといわれるものであります。

普段ですと朝と晩に行い、大摂心という修行の期間になれば、一日に何度も行うのであります。

その禅問答に使うのが、『無門関』という書物であります。

『無門関』には、四十八の禅問答が納められています。

中国の祖師方の問答を集めたもので、それについて、あれこれと工夫を凝らすのであります。

その第一則が趙州狗子という有名な問題であります。

趙州和尚に『イヌに仏性は有りますか』と僧がたずねたところ、趙州は『無』とこたえたというだけのものです。

そこで、この無とは何かと参究させるのであります。

これがやっかいで、無についてあれこれと見解を述べるものではないのです。
『無門関』には、

「三百六十の骨と八万四千の毛孔を挙げて、全身まるごと疑いのかたまりとなり、ただひとつの無字に参じて、昼となく夜となくこれを引っさげよ」
と説かれているもので

「虚無の無であるとか、有無の無であるといった理解をしてはいけない」とも言われているのです。

ではどうすればいいのかというと只ひたすら無になりきるのみなのです。

その様子を『無門関』では、

「真っ赤に焼けた鉄のかたまりを呑みこんだようなもので、吐きだそうにも吐きだすことができない」というような状態になって、

「それまでの誤った認識を根絶やしにし、ただ「無字」のみとなってその状態をたもてば、いずれ内と外とが自ずとひとつに成るだろう。」

という体験をするのであります。

無になりきる、無の一字に精神を集中させるのです。

ただそれだけの修行を根気よく務めます。

そうするとある時に

「ひとたびそういう状態が驀然として打ち破られると、驚天動地のはたらきが現れ、関将軍の大刀を奪い取ってふるうようなもの。仏に出会えば仏を斬り殺し、祖師に出会えば祖師を斬り殺し、なににも執われることがない」。

という心境になり、

更に「生死の崖っぷち、六道四生の輪廻の世界のまっただ中で、自由自在になることができる」。
というのであります。

『無門関』の訳文は、大蔵出版の『新国訳大蔵経 中国撰述部①―6 禅宗部 法眼録 無門関』にある柳幹康先生の訳を引用させてもらいました。

この『無門関』を編纂された無門慧開禅師がご自身、この趙州の無の一字をなんと六年間も工夫し続けたという体験をなされています。

夜疲れて眠気が襲ってくると、廊下を歩いて柱に頭を打ち付けて眠気を払って修行されたのでした。

そうしてある日お昼の時間を告げる太鼓の音を聞いて悟りを開かれたのでした。

無門慧海禅師は、一一八三年に生まれて一二六〇年にお亡くなりになった南宋の禅僧であります。

この無門禅師のもとに日本の僧が参禅しました。

それが紀州由良興国寺の開山法灯国師心地覚心禅師であります。

法灯国師は、承元元年(一二〇七)信州の生まれです。

出家して二十九歳の時に東大寺で正式に受戒されました。

そこから高野山に登って修行し、伝法院覚仏について密教を学びました。

更に高野山金剛三昧院にいる退耕行勇について修行します。この方は栄西禅師について禅も修められた方です。

そんなことから禅に心引かれていって、宇治深草にいた道元禅師について、仏祖正伝菩薩戒を受けました。

更に世良田長楽寺の栄朝という栄西門下の方に師事されました。

そして東福寺の聖一国師にめぐり会い、宋の国に行って、仏鑑禅師こと無準師範禅師に参じるように薦められました。

宝治三年一二四九年に四十三歳で宋に渡りました。

径山にのぼり、仏鑑禅師に参じようとしたものの、ちょうどその年に仏鑑禅師はお亡くなりになっていたのでした。

諸方の禅師方を訪ねて修行するのですが、どうにも機縁が合いません。

大梅山に行って、大梅法常禅師のお墓にお参りした時に、日本で同参だった源心という僧に会います。

この源心に薦められて無門慧開禅師の門を叩きます。

この無門禅師との出会いは実に長年求めていた師匠に会えたという感動的なもので、数回の問答で印可を与えられました。

足かけ二年ほどで、無門禅師のもとを辞しますが、この時に語録とともに『無門関』を授かって日本に伝えたのでした。

法灯国師、四十八歳の時でした。

帰朝して由良に興国寺を開創し、更に晩年には京都の妙光寺も開山されています。

六十歳の時に、母が信州に健在であることを知って、母を由良に連れてきました。

そして寺の門前に庵を構え、母をここに住まわせました。

毎日朝夕母を訪い安否を気づかいひたすら孝養の誠をつくしたのでした。

母がなくなるとここを修禅尼寺とし、母を開基としました。

また法灯国師は母没後、六十一歳から九十二歳で入寂するまで一日もかかさず跣足で母の墓前に詣で供物誦経を怠らなかったという、実に親に孝養を尽くされた禅師なのです。

また南宋で修行して帰朝する折に、径山の味噌の製法を伝えたのでした。

これが金山寺味噌と呼ばれるものです。

そしてそのお味噌を作るときにできたのがお醤油だと言われています。

法灯国師はお醤油も伝えたということになっています。

それから尺八も一緒に伝えました。

法灯国師は、お味噌と醤油と尺八、それに『無門関』を日本に伝えてくださったのでした。

今や日本の食卓に欠かせないお醤油ですが、そんな禅僧の修行と共に伝えられたものなのです。

紀州の湯浅は醤油の産地でもあるのです。

もっとも味噌にしても醤油にしてもいろんな説があります。法灯国師以前にも日本にすでにあったとも言われています。

あくまでも伝承なのであります。

私は、この興国寺で初めて当時の目黒絶海老師から公案をいただて修行を始めましたので、お味噌やお醤油をいただく度に、法灯国師の御修行を思うのであります。

 
横田南嶺

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