無の一字
趙州和尚は答えました、「ない」。
修行僧は、上は諸仏から下は蟻にいたるまですべて仏性があります、犬になぜないのですかと問うと、
趙州和尚は、彼に業識性があるからだと答えました。
業識性というのは、惜しい、欲しい、憎い、かわいいなどという迷いの性質をいいます。
もともとはこういう単純な問答でありました。
また趙州和尚の語録には、おなじく「犬にも仏性がありますか」と問われて、「家々の門前の道は、長安の都に通じている」と答えています。
どの道も長安に通じるということは、みんな仏性を持っていて、必ず仏になれるということでありましょう。
もともとは、何でもない会話であったのでしょう。趙州和尚にしても、命あるものは皆仏心を具えていると思いこんでいる観念を打破しようとされたのか、無いと答えたのかもしれません。
朝比奈宗源老師は『無門関提唱』(山喜房佛書林)のなかで
「たゞ無である。
有無の無でも虚無の無でもない。強いて云え ば絶対の無だ。
だからこの僧の引っかけようとしたわななど届きっこはない。
全く摸索不着だ。
しかし趙州はこの無の一字によって、仏性の絶対性、普遍性を、百千万言を費やす以上に明瞭に力強く吐露されたのだ。
寸鉄人を刺すと云うがこの一箇の無字が魔のついた短刀のように、後来いかに数多くの祖師方の生命を奪ったか、本書の著者無門も、仏光国師も、白隠も皆この無字によって大死一番されたのだ。
禅者の眼から見ればこの一ヶの無字が一大蔵経でもあり、全宇宙でもある、
偉なるかな無字。」
と述べておられるように、特別な意味を見いだしていったのでした。
このように「無」の一字を特別に取り上げて、この「無」の一字を全身全霊をあげて工夫せよと、宋代の禅では説かれるようになりました。「看話(かんな)禅」とも呼ばれます。
「三百六十の骨節、八万四千の毫竅(ごうきょう)を将(も)って通身に箇の疑団を起して箇の無の字に参ぜよ」と、『無門関』を編纂した無門慧開禅師は示されました。
「三百六十の骨と八万四千の毛孔を挙げて、全身まるごと疑いのかたまりとなり、ただひとつの無字に参じて、昼となく夜となくこれを引っさげよ」
というものです。
「虚無の無であるとか、有無の無であるといった理解をしてはいけない」とも言われているのです。
ではどうすればいいのかというと只ひたすら無になりきるのみなのです。
その様子を『無門関』では、
「真っ赤に焼けた鉄のかたまりを呑みこんだようなもので、吐きだそうにも吐きだすことができない」のような状態になって、
「それまでの誤った認識を根絶やしにし、ただ「無字」のみとなってその状態をたもてば、いずれ内と外とが自ずとひとつに成るだろう。」
と説かれています。
ここを朝比奈宗源老師は、
『箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相似て、吐けども又吐き出さず、従前の悪知悪覚を蕩尽し。』これは無字と自己と一枚になってすすむ様子だ、もし吾々が真赤に焼けた鉄の丸を呑んだとしたらどうだ。
じゅうじゅうと音を立て五臓六腑は焼けただれて了うであらう。
無字もまたそうだ。無字一つになりきつて坐わると、平生の意識分別は熱鉄丸に逢った五臓六腑のように、跡も片もなくなって了う。
但しそれは本当に成り切って坐われた時にはだ。
初めは中々そう行かない。
少しなり切ったと思うと、ぽかぽかっと雑念が出て来る、又なり切る、又出る、又なり切る。
この関係をよく落葉する庭を箒で掃くのにたとえる。掃けば散る、散れば掃く、それを繰り返し繰り返して生命の続く限り掃く、無字ならばつまり根(こん)限りなり切って行く。
このところだ、掃き手と落葉とは別々だが、坐禅の上ではなり切るものと、ぽかりぽかり出る雑念とはもともと二つではない、
さきに云つた坐禅の要領を心得て、じっくりと、しかし猛烈になり切つて行けば、いつの間にか雑念は消えて、濶然として澄みきって来る。
えも云えずすがすがしくなる。
その時大分よい境界になったぞと思う、それもまた妄念だ、それをも振り払って只只無になって行く、やがて無になつたと云う心もなくなる。
心路を窮めて絶すると云うはこゝだ。」
と丁寧に説いてくださっています。
要するに全身まるごとで、この「無」とは何か、疑いのかたまりになって、参じてゆけと説いたのです。
この無字を文字通り、体で工夫します。
腰骨を立てて、下腹に気力を込めて、吸い込んだ息を下腹におさめて、下腹をふくらますようにして、そしてそのふくらませた下腹をそのまま保ったまま、むしろ前に押し出すように下腹に圧をかけながら、息を長く吐いてゆきます。
その時にただ「無字」に合わせて息を吐いてゆくのです。これを繰り返し繰り返し行います。
こんな事が何になるのかと思われるかもしれません。
もっと思想的に究明した方がよいと思われるかもしれません。
しかし、ただ馬鹿になって、こんな単純なことを繰り返すのです。
そこに大きな意味があるのです。
新しく僧堂に入って修行僧は、こういう修行に取り組みます。
すでに数年取り組んできた先輩の修行僧に無字の公案をやってみてどんな感じがしたか聞いてみました。
集中力がついたとか、体全身から気力がみなぎってくるのを感じたとか、大きな力が出てくるのを感じたなどいう感想がありました。
やってみるといろんな気づきがあるものです。
そんな無字の工夫について考えると、坂村真民先生の「鈍刀を磨く」という詩を思うのであります。
鈍刀を磨く
鈍刀をいくら磨いても
無駄なことだというが
何もそんなことばに
耳を貸す必要はない
せっせと磨くのだ
刀は光らないかも知れないが
磨く本人が変わってくる
つまり刀がすまぬすまぬと言いながら
磨く本人を
光るものにしてくれるのだ
そこが甚深微妙の世界だ
だからせっせと磨くのだ
この詩と同じような世界であります。
ただひたすら訳も分からずに、全身全霊で下腹に圧力をかけて無字になりきって息を吐いていると、無とは何か、思想的なことが解明されるわけではありませんが、ひたすら取り組んでいるその人が、「無」になってきます。
「無」 になって、澄み切ってきます。
更に光り輝いてくるのです。
本人もまわりも光ってきます。
「無」に成りきった者ほど、清らかですがすがしいものはありません。
禅の本領でもある「すがすがしさ」や「さわやかさ」というようなものは、この訳も分からずただひたすら一呼吸一呼吸打ち込むことから現れてくるものです。
それで、ただ全身全霊で無の一字の呼吸をするのです。
横田南嶺