ゆったりとくつろぐ
西暦七七八年のお生まれで、八九七年にお亡くなりになっています。
百二十歳まで長生きされた禅僧です。
よく先代の管長が、中国の禅僧方をもし大相撲のように番付表にしてみたら、まず東の正横綱は趙州和尚だろうと仰せになっていました。
かの道元禅師は、「稽首す、趙州真古仏、趙州以前に趙州なく、趙州以後に趙州なし」と言われたと、筑摩書房の『趙州録』のはしがきに書かれています。
同時代を生きた臨済禅師や徳山禅師のように、棒で打ったり、一喝するのではなく、平易な言葉で人を導かれていました。
そこで「口唇皮の禅」と言われていました。
十七歳頃に出家しました。
そして南泉禅師にお目にかかっています。
その時の問答がよく知られています。
南泉和尚は方丈の内で横になっていたそうです。
方丈とはお住まいになっている部屋のことです。
まだ若い小僧さんが来るので、ゆったりとくつろいでいたのでしょう。
趙州和尚がやって来るのを見ると、すぐに南泉禅師はたずねました。
「どこから来たか。」
趙州和尚は「瑞像院です」と答えました。
瑞像というのは、めでたいお像という意味です。
立派な仏像がお祀りされていたお寺だったのかもしれません。
南泉禅師は、「瑞像を見たか。」と問います。
鎌倉でいえば、長谷から来ましたというと、では大仏を見てきたかというところでしょう。
趙州和尚は、「瑞像は見ませんが、寝ていらっしゃる如来さまは見ました。」と答えたのでした。
寝ていらっしゃる如来さまとは、「臥如来」と書かれています。
今目の前で横になっている南泉禅師のことを、「臥如来」といっているのです。
その一言で、これはただならぬ小僧だと思って、南泉禅師は起き上って更にたずねました、
「おまえはすでに主人のある沙弥か、主人のない沙弥か。」と。
主人というのは、師匠のことであります。
決まった師匠がいるのかということです。
趙州和尚は答えました、「主人はあります。」
南泉禅師は「おまえの主人はどなたか。」と問いますと、
趙州和尚は「一月とはいえ、まだ寒うございます。畏れながら、老師にはご尊体ご健祥にて祝着に存じ上げます。」と答えました。
もうすでに自分の目の前に坐っている南泉禅師をお師匠さんとして敬っているのであります。
そこで南泉禅師は寺の者を呼んで「この沙弥は、特別の席に坐らせろ。」と言ったのでした。
この後趙州和尚は、南泉禅師のおそばで四十年修行を続けました。
南泉禅師がお亡くなりになって、三年間喪に服します。
更に驚くのは、六十歳で、行脚をします。
「七歳の童子でも自分より勝れている者には教えを乞おう。百歳の老翁でも自分に及ばない者には教えてやろう。」
という願いを起こして旅をするのでした。
その途中で臨済禅師にも会っています。
そうして八十歳で趙州の観音院に住して、百二十歳になるまで教化活動をなさったのでした。
ごろんと横になっている姿を「臥如来」と表現したのは奥ゆかしいと思うのであります。
山岡鉄舟居士と南隠老師との出会いを思い起こしました。
これも先日京都で入手した『禅話の泉』に載っています。
「南隠和尚の蛇坐禅」という章です。
妙心寺の管長であった無学老師が、南隠老師と会見したことがあるということです。
お二方とも梅林寺の羅山老師のもとで同門だったのでした。
山岡鉄舟居士がお二人をご自身の屋敷に招いて饗応しました。
無学老師は、紫の衣に金襴のお袈裟をつけてゆきました。
かたや南隠老師は、粗末な木綿の法衣で平然としていました。
仏間で読経がすんでその後、書院でお膳を出されました。
鉄舟居士夫妻でご接待をなされました。
無学老師はあまりお膳にも手をつけませんでしたが、南隠老師は遠慮無くさっさと召し上がっていました。
茶菓の接待も終わり、鉄舟居士はお二人にどうぞおくつろぎくださいと言いました。
無学老師は、これでじゅうぶんと言って坐を崩されません。
それに対して南隠老師は、さらばごめんと蛇坐禅…と書かれています
蛇坐禅という表現は珍しいものです。
蛇はどのように坐るでしょうか。
『南隠老師追憶』という書物には、
「老師は、無學さんに連れられて、始めて鐵舟居士に面會されたが、暫くすると、老師は肱を席に著けて横になり、手を以て臀を撫でて居られた。 老師は懇意な家に行っては、常に斯く横になって談話されるのであった。
無學さんは几帳面な人であつたので、其後、人に語って此間南隠さんを山岡さんの所へ連れて行ったが、直に例の通り横になったので、私は實にはらはらしたと曰われたと云ふことである」
と書かれています。
蛇坐禅というのは、ごろっと横になっていることを言うのであります。
『禅話の泉』には、さすが鉄舟居士の着眼点は高いところにあり、この傍若無人のふるまいが、虎が群がる中で正念相続していささかの隙もないところを見抜いていたと書かれています。
人前では誰しも身構えるものであります。
もっとも居住まいを正していた方が無難であります。
ゆったりとくつろぐということは難しいものです。
あまり人に勧められるものではありませんが、臥如来といい、蛇坐禅といい、ゆったりとくつろいでも、坐禅しているのと同じようになれると理想なのでしょう。
ただゴロゴロしているだけではないのであります。
横田南嶺