口有って食らわずということなし
大灯国師は、弘安五年西暦一二八二年に今の兵庫県揖保郡に生まれました。
ちょうど鎌倉では円覚寺が創建された年であります。
十一歳の時から書写山に登り、仏教を学ばれます。
更に禅の道に志して、二十歳で鎌倉に来て仏国国師に参禅されました。
仏国国師からは妙超という名を与えられます。
更に大灯国師は、南浦紹明禅師に参禅されます。大応国師であります。
はじめ京都の万寿寺で修行し、更に大応国師が建長寺に移られるのにも随従され修行を重ねたのでした。
二十六歳の時に大応国師から印可を与えられています。
花園天皇に召されたのが、三十五歳の頃でした。
正中二年に宮中清涼殿にて叡山の僧と宗論しましたが、論破しています。
嘉暦元年に大徳寺の法堂を落成しています。
建武四年一三三七に五十六歳でお亡くなりになっています。
大徳寺の開山であり、妙心寺の関山慧玄禅師のお師匠さまであります。
この大灯国師の遺誡を修行道場では読んでいます。
円覚寺であろうと、他のどこの臨済宗の本山であろうと、今はみなすべて白隠禅師の教えに従って修行しています。
白隠禅師は、妙心寺の関山国師の系統の方であります。
大応国師、大灯国師、関山国師の教えを皆受け継いでいるのであります。
その大灯国師遺誡のはじめに、
「汝等諸人、此の山中に来たって道の為に頭を聚む。衣食の為にすること莫れ。
肩あって着ずということ無く、口あって食わずということ無し。」
という言葉があります。
修行僧達に向かって、あなた方は、仏道の為にこの山に集まってきたのであって、衣食の為ではないというのです。
そのあとの「肩あって着ずということ無く、口あって食わずということ無し。」というところがわかりにくいものであります。
肩があれば着ることができるし、口があれば食べることもできるというのであります。
この意味を伝えるために、道元禅師の『正法眼蔵随聞記』にある話を紹介しました。
講談社学術文庫にある『正法眼蔵随聞記』の山崎正一先生の現代語訳を参照します。
「また、大宋国の宏智禅師が堂頭和尚でおられたころの天童山景徳禅寺では、平常時千人の衣食をまかなうだけの資財資産があった。
禅堂内で修行する者七百人、禅堂外で寺の仕事をする者三百人、計千人分の経常費をまかなう資産である。
ところが宏智禅師が堂頭の住持として指導に当たられるようになってから、 諸方の僧が宏智禅師の教化を慕って、雲のごとく集まってきた。
禅堂内で修行する者だけですでに千人になり、このため堂外の僧も五、六百人必要となり、経費が増大した。
そこで寺務をつかさどる役位の僧が、宏智禅師に申し出ていった、
「寺の経常費は千人分しかありませぬ。ところが多くの僧が集まってきましたので、費用不足となりました。道義上いかがかとは思いますが、何とか余分の僧を、ほかの寺へまわすようにしては、いただけませんか」と。」
という話であります。
宋の時代の禅の道場の盛んなることがよくわかります。
そんなに大勢の者が集まって修行していたのです。
千人分しか養えない状況で、千五百名が集まってきたらどうするのか、修行僧達に質問してみました。
千人分を千五百人に分けて、一人分が少なくなっても耐えて修行するという意見が多くありました。
寄付をお願いに回るというのもありました。
『正法眼蔵随聞記』には、
「ところが、宏智禅師のいわれるには、
「人は、それぞれ、みな口をもっているのだ。お前がかかわったことではない。 心配するな」と。」
というものなのであります。
口があればなんとか食べてゆけるというのです。
原文は「人人皆口有り、汝が事に干からず、嘆くこと莫れ」というものです。
理論を超越したところであります。
大森曹玄老師が、剣と禅の道場を建てようとして、頭山満翁に相談したところ、
頭山翁は、
「君は道場を建てて、人が一人も来なかったら、独りで竹刀を振っておれ。誰も来なくてもいい、独りでやっておれ。昔から正しいことをして飢え死にした者はいない。正しいことをすれば、必ず天が餌食を与える。だから君は、正しいことをして飢え死にした元祖になれ」と言われたそうです。
大森老師は、
「これはひどいことを言うな、と思ったが、自分の尊敬する人の言われたことだから、そのとおり忠実に守ってきた。」と『驢鞍橋講話』に書かれています。
かの有名な画家ミレーもなかなか売れない時代が長かったのだと、先代の管長に聞いたことがあります。
その日の食べ物にも困っていたとか。
かつては、生活のために裸婦を描いていたそうなのです。
しかしある日町に出て、自分の裸婦像を見た人が、これは誰の絵かと仲間に聞いていて、仲間が「これはミレーといって裸婦ばかり描いている画家だ」と答えるのを耳にして、裸婦を描くのをやめてたとえ生活に苦しんでも、自分の納得する絵を描こうと決心されたというのであります。
関大徹老師はその著『食えなんだら食うな』(ごま書房)に
「自分は僧侶として好きなことをやっているのだから、一握りの米も頂けなくなったら、誰を恨むでもない。
そのときは、心静かに飢え死にすればいい。
高祖いらい、みんなその覚悟でこられたからこそ、こんにちの禅門があり、禅僧といわれる人は、その祖風をしたって仏門に入ったはずである。」
と説かれています。
八木重吉が、「神の道」という詩で、
自分が
この着物さえも脱いで
乞食のようになって
神の道にしたがわなくてもよいのか
かんがえの末は必ずここにくる
と詠っていますが、衣食のためではなく、それらをなげうっても道を求めるのでなければならないのであります。
横田南嶺