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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.05.03
今日の言葉

憲法に思う

このところ、いろんな記念日が続きます。

先月の二十八日は、サンフランシスコ講和条約が発効して七十年になる日だそうです。

一九五二年の四月二八日に条約が発効されて、日本はようやく独立を回復したのでした。

それまでの七年間は占領下にあったのでした。

私はその当時まだ生まれていませんでしたので、当時の空気はどのようなものだったのかわかりませんが、たいへんな苦労があったのだろうと思います。

しかし、その日は、沖縄や奄美諸島は米国統治下に留め置かれたために、沖縄では、「屈辱の日」と呼ばれるのだそうです。

一九七二年の五月一五日に、沖縄が本土に復帰しました。

もうすぐ五十年を迎えます。

この沖縄本土復帰の時は、私も記憶がございます。

その同じ年には、横井庄一さんが、グアム島から日本に帰ってきたのでした。

まだ戦争が終わっていないのだということを、私も子供ごころに感じたものでした。

四月二十九日は、昭和天皇のお生まれになった日で、ただいまは昭和の日と言っています。

「降る雪や明治は遠くなりにけり」とは、よく知られた中村草田男の俳句であります。

私は、今も修行道場で暮らしていますので、二十名ほどの若い者たちと一緒にいます。

もう昭和生まれは数えるほどで、ほとんどは平成の生まれなのであります。

彼らと話をしていると、時として「昭和は遠くなりにけり」と思う事があります。

この中村草田男の俳句は、昭和六年に母校の青南小学校を二十年ぶりに訪れた時の句だそうです。

昭和六年ですから、まだ明治時代が終わって二十年に満たない頃ですが、こんな感慨を抱いたのです。

まだ大学生だった中村草田男は、訪れた母校の変わらぬたたずまいに安堵しますが、雪が降り出すとともに校庭に外套を着た子どもが現れるのを見ました。

自分の頃は、着物に下駄履きだったのにと、ずいぶんと時の隔たりを感じて作ったと言われます。

本日五月三日は、憲法記念日であります。

一九四六年十一月三日に、日本国憲法が公布されました。

それから半年の準備期間をおいて、一九四七年の五月三日に憲法が施行されたのでした。

実に七十五年になるのであります。

「憲法」とは、『広辞苑』には、

①(古くはケンボウ)おきて。基本となるきまり。国法。

②国家存立の基本的条件を定めた根本法。

国の統治権、根本的な機関、作用の大原則を定めた基礎法で、通常他の法律・命令を以て変更することを許さない国の最高法規とされる。」

と解説されています。

更に「日本国憲法」を『広辞苑』で調べてみると、

「第二次大戦の敗戦後、大日本帝国憲法を全面的に改正した憲法。

1946年11月3日公布、翌47年5月3日から実施。

国民主権、徹底した平和主義、基本的人権の尊重を基調とし、象徴としての天皇、国権の最高機関としての国会、行政権の主体たる内閣の国会に対する連帯責任、戦争の放棄、基本的人権の確立強化を目的とした国民の権利義務に関する詳細な規定、独立した新しい司法制度、地方自治の確立などがその特色。」

という解説がございます。

いろんな議論があるのはご承知の通りでありますが、この憲法のもとでもう七十五年も経っているのであります。

憲法というと、聖徳太子の「憲法十七条」を思います。

第一条が、

一に曰く、和を以て貴しと為し、忤う無きを宗と為よ。

人皆党有り、また達れる者は少なし。

或いは君父に順わず、乍(また)隣里に違う。

然れども、上和ぎ下睦びて、事を論ずるに諧(かな)えば、則ち事理自ずから通ず。何事か成らざらん。

というものです。

読み方は永崎孝文先生の『教養として読んでおきたい「憲法十七条」』(致知出版社刊)によりました。

永崎先生の訳を参照しますと、

「第一条。人は心の通い合う 《和の精神》を大切にし、不毛な争いが起こらないように“共生き”の精神で支え合うことを第一とせよ。

人はみな私利私欲、煩悩・執着にとらわれて無明(私欲に目がくらみ、真実がみえないこと)であり、よくよく悟った人は少ない。

そのため、親兄弟や社会の人たちと仲たがいしたりする。

けれども、誰もがお互いに和やかな心で親しみをもって話し合えば、きっとわかり合えるようになるし、何ごとも解決できないものはないであろう。」

というものです。

一般には、「人皆党有り」を、「人は皆党に属して群れたがる」というように徒党、党派の意味で解説されますが、永崎先生は、党という字の旧字体に黒という文字が含まれているので、覆われていて鮮明でない意として、煩悩や執着にとらわれて、無明であることと解釈されています。

党は無明であり、次の達は光明と対であると解説されています。

それから第二条が、

二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。

則ち四生の終帰、万国の極宗なり。

何れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。

人、はなはだ悪しきは鮮なし。

能く教うれば従う。

其れ三宝に帰らずんば何をもってか枉がるを直さん。

というものです。

こちらも永崎先生の訳文を紹介しますと、

「心を込めて三宝を敬いなさい。三宝とは仏・法・僧であり、生きとし生けるものすべての拠り所となるものである。

いずれの世でもいずれの人でも、この仏法を貴ばないことがあろうか。
そもそも人として救いようのない極悪人はめったにいるものではなく、三宝を人生の拠り所としてよく教え導けば立派な心を持つようになり、必ずや善人となる。

三宝によらなかったら、いったい何によって邪な心を正すことができようか。」

というものであります。

仏教に深く帰依されていた聖徳太子のお心がよく伝わってきます。

仏法僧の三寶に帰依することを、永崎先生は、仏とは「人生の師」であり、法とは「何かをやりとげようとする志」であり、僧とは「共に歩もうとする友」と解釈されています。

よき師を持ち、志を抱いて、よき仲間を大切にする生き方が、仏法僧の三宝に帰依することであります。

憲法十七条の第一条と第二条だけでも深く味わいたいものであります。

 
横田南嶺

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