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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.04.26
今日の言葉

わからないことの尊さ

はじめに宣伝をさせていただきます。

昨年四月十八日にNHKラジオ宗教の時間で、「つながりの中で生きる」と題して話をさせてもらったのですが、来月五月一日の午前八時半から再放送してくださるそうであります。

その再放送の再放送が、五月八日午後六時半からだそうです。

それから先日ご紹介した花園大学で始めた学生たち向けの般若心経講義が、大学のYouTubeで公開されていますので、こちらもご案内致します。

URLは概要欄に載せておきます。

さて、囲碁の本因坊クラスの棋士と、将棋の名人クラスの棋士とが対談した記事を新聞で読んだことがあります。

もう二十年以上も前のことです。

「我々プロも町家の人も大して変わらない、誰も囲碁の真髄はわからない」と棋士が述べていました。

「碁と将棋の神様が百として、我々はどれだけ知っているかと紙に書いてみせあった。

囲碁棋士は「6」、将棋棋士は「4か5」と書きました。

囲碁将棋界きっての天才だが、これほどまでに謙虚な気持ちの持ち主で、「5」や「6」の壁に苦しむ求道者でもあった」というものです。

この言葉が印象に残っていて、紹介することがあります。

先日小川隆先生から送っていただいた『「問う」を学ぶ 答えなき時代の学問』という本は、実に興味深い内容が書かれています。

中村桂子先生の文章には大いに啓発されるものがあります。

たとえば、

「自然の中を少し歩いたら未知のことだらけですよ。

私たちはもともと、未知の中に暮らしてるんです。

生物学なんて、何か質問されたらほとんどがまだわかってません、ですよ。

38億年前に最初の細胞が生まれた。

そのことはいろんな状況証拠があるから言えますけど、じゃあ、いつどこで生まれたのかっていうのはわかってない。

生きもののことはまだ99%はわかってはいません。」

という言葉です。

囲碁将棋でも九十数パーセントはわかっていないと言われますし、まして況んや生きもののことについては、中村先生は99パーセントとわかっていないというのです。

私たちは、わかっていると良いことだと思い、わからないというのは良くない、わかるように努力しなければならないと思いがちであります。

しかし、私自身も私たちのまわりも、実はわからないことだらけだと思います。

この『「問う」を学ぶ』のはじめには、

「「わかる」とは分けることだといわれます。対象を分割し、一つひとつ分析し、同じ特徴や性質を持つものに分類する。

言葉にできるということが、時に「わかる」と同じ意味で使われるのは、言語がまさにそのようにして、事物や世界を捉えているからでしょう。

ただし、その言語による分節が恣意的であることも示すように、わかり方(=分け方)はひとつだとは限りません。

たとえば、農水省の区分けによると、メロンは野菜に分類されるそうです。だからといって、定食屋で注文した野菜炒めにメロンが入っていたら、ほとんどの人はびっくりするでしょう。」

と書かれいてます。

メロンが野菜だというのには、驚きましたが、わかるということは、対象を分割して、分類して言葉にすることでもあります。

しかし、生命やいのちのことは、わけようもなく、言葉にもしようがないものです。

本書のなかで中村先生は、

「一つわかるというのは、わからないことが100出てくるってことです。10わかると、今度は1万わからなくなる。研究というのは、やればやるほどわからない世界が広がっていくんです。」

と語っています。

この一文には我が意を得たりの思いです。

私も修行してきて、今も「やればやるほどわからない世界が広がっていく」というのが実感です。

わからないことがよくないことであるならば、それは益々むなしくなることでしょうが、わからないことが素晴らしいので、ますますわくわく楽しくなってくるのです。

計り知れない大いなる世界に抱かれているという思いなのであります。

中村先生は、

「勉強するほど、わからないことは増える。

3歳のときよりも1年生の方が、中学校よりも大学に入った方がわからなくなる。

それを楽しいと思う人が学者になるんですけど、わからないことを大事にするのは、どの世界でも必要なのではないかと思います。

今はわかってるということをあまりにも大事にし過ぎてる。」

と指摘されていて、私もそのことを言いたいのであります。

禅の世界にも同じことが言われます。

唐代の禅僧南泉禅師がこういうことを仰っています。

五祖弘忍禅師のもとにいた七百人の高僧はみな仏法を会得していた。

ただ六祖になった慧能だけは仏法を会得していなかった、道を会得しただけだ。

だから五祖の衣鉢を継いだのだというのです。

わかるというのは限定した知識になってしまうことが多いのです。

わからないことの方が尊いのであります。

わかりようのない道を会得したということであります。

鈴木大拙先生は、わけること、わかることから争いが起こると指摘しています。

『東洋的な見方』のなかで

「分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。

知るものと知られるものーこの二元性からわれらの知識が出てきて、それから次ヘ次へと発展してゆく。

哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。

それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。

すなわち力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。」

と書かれています。

もっとわからない世界に浸ることが大事だと思います。

青山俊董老師が、

その中にありとも知らず晴れ渡る
 空にいだかれ雲の選べる

と詠っていらっしゃるように、大いなるわかりようのない世界に抱かれて遊ぶような生き方をしたいのであります。

 
横田南嶺

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