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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.03.14
今日の言葉

初めて聞いた禅の話 – 人の真の尊さ –

まだ小学五年生の頃、和歌山県新宮市にある清閑院というお寺の、無声会という坐禅会で、由良興国寺の目黒絶海老師のお話を拝聴しました。

茶の麻の法衣をお召しになった老師の礼拝されるお姿に感動したのでした。

そして話を始める前に、皆に手を合わせて、「今日お集まりのみなさんは、みんな仏様です」といって拝まれたのに驚いたのでした。

つい先日、その本堂の中央に坐って、清閑院の後藤牧宗和尚の三回忌の法要を勤めたのでした。

この本堂で初めて聞いた禅の話が、『無門関』の香厳上樹でありました。

「香厳和尚云く、人の樹に上るが如し。口に樹枝をふくみ、手に枝をよじず、脚樹を踏まず。樹下に人あって西来意を問わんに対えずんば他の所問に違く。若し対えば喪身失命せん。正恁麼の時作麼生か対えん」

というのが原文であります。

こういう問題です。

人が木に登って、口に枝をくわえて、手も枝を握っていないし、脚も枝を踏んではいないというのです。

実際には不可能な話ですが、全く口だけで枝にぶら下がっているときです。

そんな時に、木の下に人がいて、西来意を聞いてきました。

西来意とは、達磨大師が西のインドからはるばるやってきた意図は何かということです。

端的にいうと、禅とは何かという問いです。

下から人が、「和尚さん、禅の教えとはいったいどんなものですか」と聞かれたらどう答えるかという問いなのです。

若し答えなければその人の問いかけに背くことになるし、答えれば木から落っこちていのちを失ってしまう。

さあどうするかという詰問です。

実に奇妙な問題です。

こんな問題が何になるのか、どういう答えなのか、まったく不思議でしかなりませんでした。

どんな解答を老師が示されるのだろうかと思って聞いていましたが、解答のようなものはありませんでした。

その話の中で、老師は

「天神七代、地神五代、並びに八百万の神、悉く皆身中に鎮坐す」という言葉を話してくれました。

白隠禅師の『臘八示衆』にある言葉だと分かるのは、ずっと後のことであります。

天の神様も、地の神様も日本国中八百万の神々が、みなこの体に鎮座してくださっているのだというのです。

そして、「此の如く鎮坐の諸神を祭祀せんと欲せば」そのように鎮座してくださっている神様をお祀りするにはどうしたいいのかというと、

「脊梁骨を竪起し、気を丹田に充たし、正身端坐せよ」というのであります。

これが「則ちこれ天神地祇を祭るなり」ということになるのであります。

神様というと、自分の外にいらっしゃると思っていたのに、これが体の中に鎮座しているとはどういうことなのか、この神々をお祀りするのが坐禅というのはどういうことなのか、これもまた実に不思議に思ったのでした。

しかしながら、理論的に理解する、しないというよりも、老師と言われる方のたたずまい、その風貌に心ひかれたのでした。

そして漢文のリズムにも心ひかれたのでした。

そこで自分なりに、この『無門関』を勉強するようになりました。

私が生まれた初めて自分で書店で本を注文したのは、この『無門関』でありました。

また清閑院の坐禅会では、山本玄峰老師の『無門関提唱』の録音テープも拝聴させてもらっていました。

これがまた独特な語り口で、心ひかれたのでした。

そこで大法輪閣の『無門関提唱』を書店で取り寄せたのでした。

漢文のリズムが心地よくて、『無門関』の全文を書き写したり、『無門関』の序文や第一則の文章を暗唱したりしたのでした。

そんなことを中学生の頃に行っていましたので、今から思うとやはり変わった少年でありました。

しかしながら、そんな頃にやっていたことが、今も身に染みついているので役に立っています。

さて、この香厳和尚の問題は何を訴えているのでしょうか。

人の本当の値打ちは何であろうかということを考えてみましょう。

地位があるから尊いのか、名声があるから尊いのか。

業績を上げたから尊いのか。

仕事が出来るから尊いのでしょうか。

本当の値打ちというのは、それが無くなったとき、あるいは無くなりかけてわかるものです。

普段当たり前にある、あることが当たり前のうちは、なかなかその値打ちは分からないものです。

私なども普段めがねをかけて暮らしています。

めがねがないとほとんど暮らしてゆけないほど、目が悪いにも関わらず、普段めがねに感謝するなど、あるいはめがねのありがたさを思うことはありません。

このありがたさに気づくのはこのめがねを無くしたときであります。

めがねを探すのにめがねが要ると思ったりします。

あるいはどうにもこうにも言うことの聞かない子があったとします。

どうにもならないと持て余していたとします。

ところが万が一、その子がいなくなってしまったらどうでしょうか。

いくら探しても見あたらないとなると、親は必ずこう思います。

どうか生きていてくれますようにと祈ります。

今まで言うこと聞かなかったなんていう事はもうさしおいて、どうか生きていてくれれば、命さえあればと願うものでありましょう。

生きていること、命のあること、実はこのことこそ、仏さまの命、仏さまのこころの働いている証拠であって、これ以上尊いものなどありはしません。

その生きているということは、天の神も地の神も八百万の神々も総力をあげて、この命を生かしてくださっているのであります。

ただ、こうして坐って呼吸しているだけで、八百万の神々が鎮座してくださっているのであります。

木にぶら下がって二進も三進もいかない時でも、その姿にもかけがえのない命が輝いているのであります。

初めて聞いた禅の話を今はそのように受け止めています。

 
横田南嶺

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