禅僧の慈愛
大泰寺は、私ども臨済宗では大切な岐阜県伊深の正眼寺の僧堂を開いた雪潭老師のお出になった寺であります。
雪潭老師は、江戸後期から明治時代にかけて活躍された方です。
享和元年(一八〇一)生まれです。
和歌山県那智勝浦町の太田のお生まれであります。
十歳で出家しました。
お父様が若くしてなくなり、雪潭老師の母は、まだ幼い雪潭老師と、その妹を育てなければならなくなりました。
雪潭老師七歳の時に、母が生家に帰る途中で大泰寺に挨拶に寄り、その時の大泰寺の住職桐嶽和尚は、子供を不憫に思って寺で育てることにしたようです。
薄幸の幼少年期を過ごされたのでした。
しかし、まだ幼い雪潭老師は難しい漢文でもすらすらと読んで、神童とまで呼ばれるほどだったようであります。
十歳の頃から仏門に心ひかれて桐嶽和尚の弟子となったのでした。
宗頓という僧名をつけてもらっています。
頓にはずしんと腰を下ろす、腰を下ろして動かないという意味があります。
また禅宗で大事にしている頓悟の頓であります。
頓悟とは速やかに悟ることを言います。
当時の大泰寺は桐嶽和尚のもとで大勢の弟子がいたようであります。
仏教の経典や、中国の儒教などの書物を学ぶうちに、若い雪潭老師は更に行脚して禅の真髄を究めたいと思うようになりました。
しかしまだ若い雪潭老師に、桐嶽和尚はまだ早いと言っていさめていました。
とうとう、雪潭老師は、「余、もしこの道を成就せずんば再び斯門に入らず」という一紙を門に貼り付けて、寺を脱出して京都に上り、本山の妙心寺に入ったのでありました。
時に十八歳でありました。
それから諸国を行脚して修行を重ねたのでしたが、心にかなう師にめぐり会うことができませんでした。
たまたま播州明石の龍谷寺で、修行僧の集まりがあって、そこで今もっともすぐれた禅僧は誰かと聞いてみると、美濃の慈恩寺の棠林宗寿禅師だということを知りました。
そこでただちに慈恩寺に赴いて参禅をしたのでした。
慈恩寺に来て三年目に棠林禅師は、加治田の龍福寺に移られて、そこにも随侍して修行に励みました。
励みましたものの、公案という禅の問題が容易にとけません。
山門の楼上に上って坐禅しますが、埒があきません。
万事窮してもはやこれまでと思って、楼上から身を投げようとした刹那に、鷄が声高く鳴きました。
その瞬間に悟りを開いたのでした。
すぐさま棠林禅師のもとに駆けつけますと、棠林禅師もその表情を見ただけで、破顔一笑して認めたのでした。
更に棠林禅師のもとで研鑽を積んで、臨済宗の公案を極め尽くして、天保二年雪潭老師三十歳の時に、大泰寺に帰って住職になったのでした。
そこで十年間を過ごされます。
十年後の天保十二年、雪潭老師は、この大泰寺で臨済録を提唱する法会を三旬にわたって催されたのでした。
集まった僧侶は、三百名、そこで気鋭の雪潭老師が、臨済録を見事に提唱されたのでした。
地方のお寺でもこういうことが行われていたのです。
それによって、地元の人達も信仰心を持っていったのだと思います。
弘化四年、雪潭老師四十六歳で、美濃の伊深正眼寺に招かれたのでした。
正眼寺は、妙心寺の開山無相大師が悟後の修行をされていた聖地であります。
そこで修行道場、僧堂を開いて大勢の修行僧を指導されたのでした。
あまりにも厳しい禅風からかみなり雪潭とあだ名をつけられたのでした。
有名な逸話が、犬山の瑞泉寺で臨済録を提唱されたときでした。
藩主の犬山公も隣席していました。
まだ江戸時代のこと、藩主の犬山公は上間の間で御簾を隔てて聞こうとされました。
しかし雪潭老師は、
「ワシの提唱に糟はない、ふるいにかけて聴くことはない」
と藩主に一喝を浴びせたのでした。
犬山公もさすが、ご無礼仕ったと言ってわびたのでした。
まだ江戸時代のこと、藩主に無礼な振る舞いをしては、手打ちになっても仕方のない時代でしたが、この雪潭老師の迫力には恐れ入ります。
大泰寺を訪ねて今のご住職から雪潭老師の貴重な資料を頂戴しました。
『かみなり雪潭』という本で五十年前の雪潭老師百年忌に出された本でした。
そのなかには、雪潭老師の伝記や逸話が載せられていますが、そのほかに『父母恩重経』を講義されたものが載っていました。
『父母恩重経』は文字通り父母の恩の重いことを説いたお経です。
かみなりと恐れられた禅僧が、『父母恩重経』を説かれたのにも驚きました。
ご生前によく講義されたということであります。
そのなかに、こういう一節がありました。
「支那の聖人孔子さまの言葉だったか、父母を色養するとあったが、色養とは顔色で親孝行が出来るということじゃあ、
その意味は親はその子が、何もうまいものを持って来なくても、笑顔でやって来るだけでもうれしいということじゃあ、金持ちや地所持ちにならなくてもよい、夫婦・親子が仲よく暮すということが、倖せじゃあ」
とありました。
「色養」という言葉はあまり聞き慣れませんが、諸橋轍次先生の『大漢和辞典』には、
「親の顔色を見、其の心を察して事えること。一般に、常に和悦の顔色を以て父母に奉養すること。」と解説されています。
もとは『論語』にある話であります。
『論語』に
「子夏、孝を問う。子の曰わく、色難し。事あれば弟子其の労に服し、酒食あれば先生に饌す。曾ち是れ以て孝と為さんや。」とあります。
岩波文庫の金谷治先生の訳を参照しますと、
「子夏が孝のことをおたずねした。
先生はいわれた、「顔の表情がむつかしい。
仕事があれば若いものが骨を折って働き、酒やごはんがあれば年上の人にすすめる、さてそんな〔形のうえの〕ことだけで孝といえるかね。」
という意味ですが、註釈には
「顔の表情ー親の前でのやわらいだ顔つき。心の中に本当の愛情があってこそできる。それでむつかしいといった(新注)。」
と書かれています。
親の前ではいつも穏やかな表情でいることが孝行だという教えなのです。
食べ物などを差し上げることよりも、親の前でいつも穏やかな表情でいることが難しいのです。
雪潭老師は、幼くして父を亡くして、お寺に預けられています。
不憫な境遇ですが、恐らくや親を悲しませまいと、幼少の頃から表情にも気をつけておられたのかと思いました。
自分の不遇を嘆くよりも、まだ幼い子を手放さざるを得なかった母の心情を察していたのではないかと思ったのでした。
幼い頃から、父母への深い愛情を持ったのが雪潭老師だと思ったのでした。
のちに「かみなり雪潭」と恐れられたのでしたが、その『父母恩重経』の講話などを読むと、もとは根の優しい慈愛に満ちたお人柄だったと思うのであります。
横田南嶺