人間 – この尊いもの、この愚かなるもの –
禽獣は鳥や獣です。
人間と動物とは、どこが違うのかという問題であります。
仏教でも、お互いが人間に生まれたことの尊さを説いています。
「人身受け難し、今すでに受く、仏法聞き難し、今すでに聞く」という言葉を唱えています。
人間としてこの世に生まれて、仏法を聞くことができることのありがたさには、盲亀浮木の喩えがあるほどです。
盲亀浮木とは、大海中に住み、一〇〇年に一度水面に浮かび出るといわれる盲目の亀がいたとして、その亀が流れただよう浮木のただ一つの穴に入ることができるほど極めて稀なことの譬えです。
それほど尊いことなのです。
今で言えば宝くじに何回も連続して当たるようなものです。
では、いったいどういうところが尊いのでしょうか。
森先生は、まず
「人と禽獣との差は、「言葉」の有無によって異なる」という見解を示されています。
たしかにそうでしょう。人間は言葉を使うことによって、思想や文化を発展させてきました。
しかし、森先生は
「単なる言葉の有無は、いわば形の上の問題であって、それだけでは、未だ必ずしも人と禽獣とを区別する、真の根本的な根拠とは言えないでしょう」と述べておられます。
次に「道具を使うか否か」という点を挙げていますが、これも「人と禽獣とを分かつ一つの重要な徴表とは言えましょう」と書かれています。
しかし、そのようなことは「単に外形上より見たものにすぎない」と森先生は仰せになっています。
そして更に森先生は、
「最後に今一つの立場は、人と禽獣とを区別する標準として、理性の有無をもってしようとする立場であります」と述べています。
そしてこの点こそが、「内面的本質的な区別」だとされています。
そこで「一応これをもって、人と禽獣との本質的差異の基準とすることができる」というのであります。
森先生は、更に考察を深めて、
「われわれ人間が禽獣と異なるゆえんの真の根本は、結局理智の奥底にあって、常に理智を照らして導くところの、真の人生の叡知でなくてはならぬでしょう」と説かれているのであります。
ではその真の叡知とはどのようなものかというと、
「人間として真に正しい道を知る叡知は、ある意味では、人間界を打ち越えたところから照射して来るとも言えましょう。
すなわちわれわれは自分の姿を、われとわが心にはっきりと映す鏡のような心にならない限り、真の正しい道は見えないのであります。
かくして真の叡知とは、自己を打ち越えた深みから射してくる光であって、私達はこの光に照らされない限り、自分の真の姿を知り得ないのであります。
そうしてかような反省知、自覚知を深めていくことによってわれわれは、初めて万有の間における自己の真の位置を知り、そこに自らの踏みいくべき大道を見出すことができるのであります。」
と実に明解に説いてくださっています。
「自分の姿を、われとわが心にはっきりと映す鏡のような心にならない限り、真の正しい道は見えない」というのは的確であって、仏教でも心を鏡のように清らかにすることを説いています。
いやもともと本来鏡のように清らかに、自己の姿をありのままに映し出すものなのですが、煩悩によって汚されているのであります。
「自己を打ち越えた深みから射してくる光」とはどういうものなのか、これによって照らされないと真の姿が見えないというのは、幾分宗教的にも受け止められるところであります。
そして森先生は
「人間は、自己がこの世に生まれ出た真の意義を知り、自らの使命を自覚して、いささかでもこれを実現しようとするところに、人と禽獣との真の本質的な違いがあると言うべきでしょう。」と説かれているのであります。
このように人間が動物とは異なる尊いところを、修行僧達と共に学んでいました。
一通り学び終えたところで、私は人間は尊いところだけだろうか、いやともすれば動物よりも劣っているところもあるのではないだろうかと疑問を投げかけてみました。
修行僧達も考えてくれました。
ある修行僧は、環境を破壊する点を挙げてくれました。
たしかにその通りです。
動物はそれほどまでに環境破壊はしないでしょう。
もっともあまり草を食べすぎてしまうとか、木の芽を食べて木を枯らしたりというのも破壊していると言うかもしれませんが、人間の環境破壊には比べるべきもありません。
必要以上に食べてしまうということを挙げてくれた者もいます。
たしかに虎やライオンでも、自分たちに必要な程度しか動物を襲わないと聞いたことがあります。
自然の叡知で足ることを知っているのでしょうか。
人間には飽くなき欲求があります。
足ることをしないで、どんどんおいしいものを求めてしまいます。
その結果食料を残して廃棄してしまうことを指摘した者もいました。
必要なものを食べている動物よりも劣っていると言えるかもしれません。
私は、人間ほど、お互いを殺し合うものはいないのではないかと指摘しました。
もちろん他の動物でもお互いを殺すこともないわけではないと察しますが、人間ほど大規模に苛烈に行っているようには思えません。
今も戦争や紛争がなくならないように、人間は人間同士殺し合うのであります。
釈宗演老師は、
「世界が始まって以来、大小の戦争が、何回起こったか、わからない。
そして、そのために、死んだ人数は、当然ながら、少なくない。
ある学者の統計によれば、その人数は全部で十四億人という。
いま、この人数が、その腕を左右に伸ばし、互いにその手を取り合ってならべば、その行列は八千四百五十八万三千三百三十マイル(わが国の六百七万六千三百八十三里半)の長さにおよび、この地球の周囲を六百八回も取りまくことができるのである。
また、いま、十四億人の人を、一人ずつ数え上げようとすれば、毎日十九時間を勘定に費やして、一時間に六千人ずつを数えられるとして、三百六十六年もかかるというのである。」
と説かれています。
はてさら、この説の根拠がどこにあるのか全く分かりませんが、それほど戦争で殺し合ってきたのが人間なのであります。
しかし、その愚かさを見据えて、人間は尊い平和を求めることもできるのであります。
釈宗演老師が、まだ三十五歳の時にシカゴの万国宗教会議で演説された一節に、
「戦争が私達に何をもたらしてくれるというのでしょう?
何も、もたらしてはくれません。
戦争とは、弱い者が、強い者に虐げられることに過ぎないのです。
戦争とは、兄弟同士が争い、血を流し合うことに他ならないのです。
戦争とは、強い者が、結局何も得るものがない一方で、弱い者が、すべてを失うことなのです」と説かれ、更に、どうすれば平和を実現できるかについて
「私達の願いは、どのようにすれば、本当にかなえられるのでしょうか?
それを助けてくれるのが、真の宗教なのです。
真の宗教が、慈悲と寛容の源なのです。
真の宗教の本分は、普遍的な人類愛と恒久の平和という崇高な願いの実現にあるといえるのではないでしょうか。
そして、そのために、私達が中心となり、原動力とならねばならないのではないでしょうか」と喝破されているのであります。(訳文は『禅文化』一六八号、「戦争という手段に訴える前に」安永祖堂老師訳による)
人間の愚かさと、尊さとの両方を自覚した上で、やはりこの愚かさを克服して、尊さに目覚める生き方をしたいものであります。
横田南嶺