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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.02.24
今日の言葉

菩薩の誓願

先日、静岡市清水区の小島にある龍津寺を訪ねることができました。

この小島の龍津寺というところは、是非とも一度訪ねてみたいと思っていたお寺なのであります。

白隠禅師について話をするときに、何度か紹介させてもらったことのあるお寺なのです。

そのお寺の前のご住職が、円覚寺で朝比奈宗源老師について修行された和尚さまでありました。

その和尚様の頂相という肖像画をつくられて、そこに讃を書いてほしいと頼まれたのでした。

白隠禅師というお方は、当時の政治に対しても手厳しい意見を述べておられます。

単に自ら坐禅していただけのお方ではないのであります。

たとえば、幕府によって禁書とされるような著書も残されています。

それは『辺鄙以知吾』という書物であります。

これは宝暦四(1754)年、白隠禅師七十歳の年に書かれたものです。

岡山藩第四代藩主の池田継政公(1702~76)に宛てた手紙の形をとっています。

諸大名が多くの側室をかかえたりして贅沢な生活をしていることを指弾し、そのために苦しむ領内の民を憐れんでいるのです。

当時頻繁に起きていた一揆や強訴なども、白隠禅師は「窮鼠却て猫を咬むと云んか」と、お百姓さんたちに同情を示しています。

一揆の本当の犯人は、民ではなく役人だと実に激烈な調子で、当時の政治批判を展開しています。

参勤交代の大名行列も手厳しく批判して、その膨大な費用は結局お百姓さんたちにくるのだと書かれています。

その結果御政道を批判したととらえれて『辺鄙以知吾』は禁書となったのでした。

白隠禅師の激しい一面がうかがわれます。

もっとも白隠禅師は、寛延三年(1750)播州明石の龍谷寺に招かれていて、その翌年宝暦元年には、岡山藩にある少林寺に招かれ更に井山の宝福寺にも行かれています。

寛延元年から二年にかけて、姫路藩では干魃や風水害に苦しみ、窮した農民達は立ち上がり、一揆を起こしたのでした。

首謀者は打ち首や磔にされたのでした。

白隠禅師が直接その惨劇を目にしたわけではありませんが、岡山への道中姫路を通過して、まだなまなましい一揆の一部始終を耳にしていたものと察せられます。

また白隠禅師が『辺鄙以知吾』を著して池田公に上書した年には、美濃郡上藩でも騒動が兆していました。

結果は藩主の改易となりましたが、農民側にも多数の犠牲者がでたのでした。

白隠禅師は、騒動のいまだ覚めやらぬ中宝暦八年に、飛騨高山から美濃にかけて提唱の旅を続けておられます。

農民達の窮状を白隠禅師は親しく見聞きされたのだと察します。

白隠禅師には『夜船閑話』という仮名法語があって、これは白隠禅師の著作の中でももっともよく読まれたものであります。

長年厳しい修行を続けたために、体を壊した白隠禅師がどのように健康を回復していったか具体的に内観の法などを説かれている書物です。

その「巻之下」もあるのですが、こちらはまったく別の内容であります。

これが駿河小島藩主、松平昌信(しげのぶ)公(1728~71)に与えられた法語であります。

小島藩は石高一万石の大名で小さな藩でありました。

そのため、参勤交代や諸役の負担は大きく、藩政はつねに逼迫していました。

宝暦五年(1755)小島の龍津寺に招かれて白隠禅師が説法なさるのを、この小島藩主の松平昌信公が聴聞しているのです。

白隠禅師はこのとき龍津寺で維摩経を提唱されました。

この小藩の藩主に対して仁政を指南したのがこの『夜船閑話巻之下』であります。

白隠禅師は、この書物で昌信公に対して酒宴をやめて、側室を減らし、出費をおさえるように説いています。

鷹狩りは民百姓の負担になるばかりか、殺生の破戒行為であるから、これをやめよ、追従をこととする佞臣を退け、賢臣を登用して、これに国政をゆだねよ、という内容を説かれているのであります。

当時七十一歳の白隠禅師が、四十三歳も年下の二十八歳の昌信公に書いたのでした。

しかし白隠禅師の思いとは裏腹に、小島藩では、年貢の徴収が増えに増えて、とうとう惣百姓一揆にまで発展したのでした。

このときに白隠禅師は裏でいろいろと指南をして、小島の惣百姓一揆は犠牲者を出すことなく、めでたく悪い役人たちを罷免させて終焉したのでした。

もっとも白隠禅師が関与したという資料は残っていないのですが、「白隠は慎重に用心深く惣百姓側と接触して戦略を授けたのではなかろうか」と『白隠 江戸の社会変革者』という本に、高橋敏先生は指摘されているのであります。

明和四年(1767)、白隠禅師が、惣百姓一揆策謀の地である西島の光増寺を訪れた時には、白隠禅師の法話を拝聴しようと村人達がまるで蟻のように集まって、本堂は満席になり、床が踏み折れてしまったというのです。

高橋先生は、「一揆に一緒に闘った白隠と村人の絆が秘められているように考えられる。

白隠八十三歳、死の一年前のことである。

生涯を八面六臂に生きた白隠ここにありの大丈夫ぶりである」と書かれています。

白隠禅師は、苛烈な年貢の取り立てに苦しむ民衆の中に降りてゆかれたのでした。

地獄に苦しむ人達を救うためにあえて地獄に降りてゆかれたのです。

まさに菩薩であり、このようなお姿を地獄大菩薩というのだと思います。

その時に白隠禅師が提唱の時に使われた講座台が龍津寺の本堂に残っていました。

その講座台を拝見して、龍津寺の境内にたたずむと、大菩薩白隠禅師の誓願をしみじみと感じることができたのでありました。

 
横田南嶺

菩薩の誓願

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