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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.02.17
今日の言葉

これでいいのか

先日佐々木奘堂さんにお越しいただいて坐禅の講義と実習を行ってもらいました。

かれこれもう第二十回になるというのです。

今回、修行僧はご自分のお寺に帰っている者が多くて人数は少なかったものの、はるばる春日井から、受講に来られた和尚さんもいて、小人数ながらも大いに実りのある勉強会となりました。

和尚さんの研修会というのは、よく行われているのですが、坐禅のみを探求する会というのは少ないでしょう。

坐禅こそ探求すべき、お互い最も研鑽すべきであると私は思っています。

私などは、小学生の頃からはじめてもう何十年にもなりますが、いまだに「これでいいのか」という気持ちで坐禅を探求しています。

今回奘堂さんは、十九歳ではじめて読んだ哲学書だというプラトンの『饗宴』(岩波文庫)の言葉を引用されました。

「僕は、どんなにか立派な演説ができるだろうと大いに自惚れていたものだ――なぜなら僕は、物を讃美する真の方法をよく解していると信じていたから。ところが、見受けるところ、それ(真実を語ること)は明らかに、物を美しく讃美する仕方ではなかった。」

「見受けるところ、最初から話はきまっていたのだったものねえ。僕達がめいめい本当にエロスを讃美しようということではなくて、ただ讃美する者のように見せかけようということに。」

という言葉であります。

エロスというのは、真の愛のことです。

「ただ讃美する者のように見せかけよう」としているという言葉は身につまされるものがあります。

我々も仏心だの慈悲だのといって、ただ上手に説く者のように見せかけていると言われると身も蓋もないのです。

修行というのが、この上手に見せかけるようにするためにしている一面がないとは言えないのであります。

更にプラトンの、

「無知者もまた智慧を愛求することもなければ、また智者になりたいと願うこともないものです。

というのは、無知がはなはだ厄介なものであるゆえんはこういう点にあるからです、すなわち自ら美しくも善くもまた聡明でもないくせに、それで自ら充分だと満足していること、ちょうどその事に。ですから自ら欠乏を感じていない者は、自らその欠乏を感じていないものを欲求するはずもありません。」

という言葉を紹介してくれました。

「自ら美しくも善くもまた聡明でもないくせに、それで自ら充分だと満足している」という言葉もまた身につまされるものであります。

そのような話を拝聴していて、私は服部潤さんの言葉を思い起こしていました。

服部潤さんというのは、一九七三年宮崎県のお生まれであります。

ご著書があって『日々の閑言集』(黒潮文庫)といいます。

独自の書でご自身の言葉を書かれているものです。

書道を専門になさっている方です。

絵も描かれます。

私が服部さんのことを知ったのは、佐々木閑先生の動画で、「出家的に生きる人、服部潤氏」という題でお話なさっているのを拝見したことからでした。

そこで、早速服部さんの『日々の閑言集』という本も取り寄せたのでした。

服部さんは、あたかも相田みつをさんのように、ご自身の書でご自身の言葉を書かれているのであります。

「書道家」という題で、次の言葉が書かれています。

少々長いのですが、引用させてもらいます。

「①師匠の字をそっくり真似て、他人の言葉を書くことに長けてはいるが、自分の字で自分の言葉を書くことが出来ず、そのくせ、どういうわけか自分を芸術家だと信じて疑わぬ人達のこと。

②①の人に反して、自分らしさにこだわるが、そのやり方が最終画を大袈裟に跳ね上げたり、「愛」や「絆」といった字を好んで書いたり、すでにどこかで聞き覚えのある、毒にも薬にもならない言葉を仰々しく物する点で皆大差はなく、又、そんな自分を芸術家だと信じている点においては①と同類の人達。」

これら二種類の書道家をよしとしているのではありません。

服部さんは、このような書道家ではいけないと思って、ご自身の書をお書きになっているのであります。

服部さんに手紙を書かせてもらって、一枚の色紙を頂戴しました。

風車の絵を描いて、「寒風かつて吹くことなし、涼風かつて吹くことなし」と力強い書が書かれていました。

寒風を避けようとして、涼風を好んでいる私には実に手厳しい言葉であります。

佐々木閑先生の著書をよく読まれて、在家ながら坐禅もなされて出家的に生きようとされている服部さんならでは言葉であります。

色紙をいただいて有り難く飾らせてもらっています。

書道家という題の言葉を、僧侶にあてはめてみると、習った通りにお経をあげて、教えられた通りに話をして、仏教の本質は何も分かっていないのに、自分は仏教の僧侶だと思っているというのが第一でしょう。

それから、「慈悲」だの「仏心」だの、すべての人は仏の心を持つだのと耳障りの良い言葉をつかって、「いのちを大切にしましょう」などと「毒にも薬にもならぬ言葉を仰々しく物する」というものです。

こちらも実に耳の痛いものです。

このようなことではまさにプラントンの言うように、「自ら美しくも善くもまた聡明でもないくせに、それで自ら充分だと満足している」ということに当てはまりましょう。

それから奘堂さんは、更にドラッカーの『マネジメントⅢ』(日経BPクラシックス)という本から興味深い話をしてくださいました。

古くからの言い伝えに、三人の石切り職人に「何をしているのか」と尋ねたという逸話があるそうです。

以下奘堂さんの訳を引用させてもらいます。

「一人目は、「生活の糧を稼いでいる」と答えた。

二人目は、仕事の手を休めずに「この国で最高の石切り職人としての仕事をしている」という。

三人目は、顔を上げると、希望で瞳を輝かせながら、「大聖堂をつくっているのです」と述べた。

 … 一人目は普通であり、報酬に見合った仕事をするだろう。

問題となるのは二人目である。

高い技量を身につけ、「この国で最高の石切り職人」を目指すことはとても重要である。

高い水準を目指さないようでは、誠実な仕事ぶりとはいえないし、本人だけでなくまわりをも堕落させる。

ところがここに危険もある。個々の技能で優れているだけであるのに、全体的なビジョンや、事業の本当のゴールから外れてしまいがちなのだ。

すると、閉じた中で、ある職能に秀でていること自体が目的になってしまう。

そのような状態のもとでは、各職能分野で自分たちの能力が秀でていることのみが関心ごとになったり、「奥義」を躍起になって(嫉妬深く)守ろうとしたりする。」

というのであります。

これもまた僧侶に引き当ててみると身につまされる話であります。

生活の糧を得るためというのも否定できない一面でしょう。

また布教の技術を磨くとか、坐禅という技能を身につけ、奥義を究めようという者もいるでしょう。

希望で瞳を輝かせながら、「大聖堂をつくっているのです」というようには到らないことが多いと思われます。

奘堂さんは、白隠禅師の「天神七代、地神五代、並びに八百万の神、悉く皆身中に鎮座す」という言葉を用いて、その神々を祀るには、脊梁骨を竪てて気を丹田に満たしめると坐禅を説かれたのでした。

神々を祀るというのが坐禅なのです。

神様から尊いものをいただくのだという気持ちが腰を立てることになるということを、実際に何度も丁寧に実習してもらいました。

毎回毎回いろいろと学ぶたびに発見があり、学びが深まります。

常に、これでいいのか、これでいいのか探求し続けることが大事だと思っています。

また奘堂さんと坐禅について語り会えるのが何より楽しみでもあります。

 
横田南嶺

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