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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.10.20
今日の言葉

すべては仏と言われても…

「一切衆生悉く仏性有り」という『涅槃経』の言葉があります。

あらゆる命あるものには、悉く仏性があるということです。

『法華経』において、人はみな仏になることができる可能性があると説かれました。

そこから、すべての命あるものには、仏の心、本質が具わっていると説いたのが『涅槃経』であります。

こういう教えを如来蔵とも申します。

岩波の『仏教辞典』によれば、

如来蔵は、如来を胎に宿すの意味であります。

そして「ただそれが煩悩を纏っているため、まだ如来のはたらきを発揮出来ない状態にあるもの」なのが、私たちの今の状態なのだと説くのです。

『如来蔵経』には、いろんな譬えで示されています。

色あせた蓮華の蕚(うてな)に隠れた如来のようなものである。

蜂の群れに取り囲まれた蜜のようなものである。

籾の中の穀物のようなものである。

不浄な汚物の溜めに落ちた金のようなものであるなどという譬えです。

すべてのものに仏の心があると説いたところから、更に華厳の教えになると大きく発展してゆきました。

それが「仏性現起」という教えであります。

鎌田茂雄先生の『華厳の思想』(講談社学術文庫)の中から、引用させてもらいます。

「あらゆる衆生に仏性がそなわっているということを説いたのは『涅槃経』であり、『法華経』でもそれをいう。」

「仏性というのは仏になる可能性だが、どんな人でも仏になりうる可能性を持っているのだから、それをわれわれは修行によってあらわしていかなくてはいけないのだという。」

ということは、『涅槃経』などで説かれるところなのです。

さらに華厳では、

「本来仏性がそなわっているということは、『涅槃経』『法華経』ばかりでなく、『華厳経』でも同じだが、『華厳経』の場合にはむしろ仏性・本来性のほうにウエイトをおく。」と鎌田先生は指摘されています。

そうするとどうなるかというと、

鎌田先生は「ところが『華厳経』は本来性に重点をおくので、一切は仏性のあらわれとして輝いており、そこには悪とか迷いというものはないという。」

「どんなものでも仏性の顕現と見、すべては仏の光明に包まれたものと見るのである。」

と説いて下さっています。

どんなものでも仏性の現れと見るのです。

すると「どんなに悪とか煩悩、汚濁、そういうものが現実在であると実際には見えても、仏の光から見れば、それは仮の存在、仮に形を成してあるものだと考える。」ということになります。

そうしますと、

鎌田先生は、更に

「華厳の場合には、悪とか煩悩、汚濁などはみな仮の存在であり、全部仏のなかに包まれていくので消えていく。こうなると修行もいらなくなってしまう。」と説かれます。

そうなると、「華厳が宗教としての生命を持ちえなかったのはここにある。哲学としては理解がつくのだが、実際にこれでは人を救えないわけである。」という問題点を指摘されています。

鎌田先生は、

「『華厳経』の性起という考え方、あらゆるものが仏性に光り照らし出されていく。たとえば奈良の大仏の光背を考えるといいが、これが全宇宙を覆っているのだという考えが、「性起品」にあるわけである。仏性が現存在として起こっているという考え方で、山や川も仏性の現起になる。」

と説かれます。

そのことは、更に
「この考え方は、中国人の古来からある自然と一体であるという考え方と一つに密着した。『華厳経』でこのようなことを説いているのが中国人のなかにもともとある自然との一体感となって花開いていく。
 華厳が入ってきて、それが禅のなかへも流れていくわけだが、そうなってくると山川草木も仏になってくる。山は仏の相だという考えが生まれ、川の音は仏の説法だと、こういうことが北宋の文人蘇東坡によって歌われている。山も川も仏なのだ、そして人間も仏なのだ。
全部仏になってしまう、そういう考え方が生まれてきたわけである。」

と解説してくれています。

こういう教えが禅のもとになっています。

そこで、「頭頭顕露、物物全真」という禅語になります。

頭頭とは、ひとつひとつのもの、あらゆるものを言います。

すべてのものはみな仏性の現れであり、すべてが真実なのだというのであります。

または「頭上漫漫、脚下漫漫」といって、どこにもかしこにも仏性は満ちあふれているのだと説くのであります。

鎌田先生は、こういう教えを「人間の苦悩をあまり認めない、一種の楽天的な世界観になっていく。」と懸念されていますが、どんな逆境であろうとも、それも仏の現れだと説いて、それを試練だと受け止めたのであります。

「逆境は神の恩寵的試練なり」と森信三先生は説かれました。

そのように受け止めて生きたいものです。

しかしながら、現実には、この頃「親ガチャ」という言葉もあることをお若い方から教わりました。

どういう意味なのか、まだよく理解できていないのですが、「どのような親のもとに生まれてくるかによって人生が決まってしまう」という意味だそうです。

子は親を選べないとは昔から言われることですが、決して有り難いと感謝するだけではないというのであります。

なかなか、今のような格差も問題になる時であると、すべては仏の現れであると受け止め難い一面もあるのだろうと察します。

そんな中を苦悶しながら、生きているのでありましょう。

どうかくじけないで、あきらめないで、自暴自棄にならないでと願うばかりであります。

やはりすべては仏の現れだと受け止めることのできる日がきっと来るのだと信じています。

 
横田南嶺

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