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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.09.29
今日の言葉

そのままが仏か – そのままならぬもの –

禅の修行というと、手を組み足を組んで坐禅して、じっと坐って動かずに修行することで、動いたり眠ったりしたら、警策という棒で叩かれる姿を思い浮かべることが多いと思います。

実際に今も修行道場では、そのように修行しています。

ところが、盤珪禅師という方は、居眠りしている僧がいて、それを棒で叩くということがあると、叩いた方のお坊さんを叱ったというのです。

眠ったら、不生の仏心、即ち本来生まれ持っている仏心が、他のものになってしまうのかというのです。

眠れといって勧めることもしなければ、眠っても叱りも叩きもしないというのです。

この盤珪禅師の言葉を読むときに注意しなければならないのは、今でこそ、坐禅して眠ると警策という棒で叩かれるのが当たり前と思い込んでいますが、実は警策というものは、盤珪禅師の頃に中国より入ってきたものなのです。

もともとは無かったものらしいのです。

その頃、ちょうどそのように棒で叩くということがなされるようになってきた頃だったのです。

それに対して、盤珪禅師は、それはおかしいと述べたのでした。

寝れば寝たまま、眠れば醒めた時の仏心で眠り、醒めれば眠っていた時の仏心で起きていると説いたのでした。

眠れば仏心で眠り、醒めれば仏心で醒めていれば、他のものになるように思うのが間違いだというのです。

そこで盤珪禅師は次のように述べています。

盤珪禅師の語り口に親しんでもらいたいと思いますので、あえて原文を紹介します。

「みなが仏にならふと思ふて精を出す。それ故眠れば、しかりつ、たゝいつするが、それはあやまり。仏にならふとせうより、みな人々親の産付(うみつけ)たは余のものは産付はせぬ、只不生(ふしょう)の仏心(ぶっしん)一つばかり産付た所で、常に其不生の仏心で居れば、寝りや仏心で寢、起りや仏心で起て、平生活(いき)仏(ぼとけ)でござつて、早晩(いつ)仏で居ぬといふ事はない。常が仏なれば、此外又別になる仏といふてありやせぬ。仏にならふとせうより、仏で居るが造作がなふて、ちかみちでござるわいの。」

だいたいは分かるかもしれませんが、意味を訳してみます。

みんなが仏になろうと思って精を出して努力しています。

それだから眠れば、眠った僧を叱ったり、叩いたりするが、それは間違いです。

仏になろうとするより、皆人々の親が産み付けてくださったのは、他のものは産み付けはいたしません、

ただ不生の仏心一つだけ産み付けたので、常にその不生の仏心でいれば、寝れば仏心で寝、起きれば仏心で起きて、ふだんからいつも活き仏であって、いつか仏でなくなるということはないのです。

常日頃が仏なので、この他にまた別に仏になるということもありません。

仏になろうとするより、仏でいることが面倒な手間がかからなくて近道でございます。

ということなのです。

あれこれと作為をして、造作することは無用だというのであります。

「不生の仏心」とはどのようなものなどと、あれこれ考えるのは不要なのです。

不生になることもいらない、理解ではない、ただそのままが不生の仏心なのだというのが、盤珪禅師の説かれたところです。

さて、ここでこの盤珪禅師の教えをそのまま受け止めてもいいのかという問題です。

そのまま受け取るわけにはいかないなどというと、すぐに盤珪禅師のお叱りを受けそうです。

鈴木大拙先生は、

「盤珪の説法を読むと、慧能や臨済のを読むと同じい心持のすることがある」(『鈴木大拙全集第一巻 禅思想史研究第一』一八七ページ)と述べたり、

「『仏になるより仏のままで居るのがよい』と云ふ彼の直示は、實に仏教の核心を突いて居る」(同一九二ページ)と説いていながらも、

「そのままで不生だ」と云ふことは、単なる現成(げんじょう)肯定ではない。此肯定は否定を経ての肯定である。……禅者のそのままのうらには大いにそのままならざるものを含んでいる。そのままは始めからのそのままではない。さうであると云ふ場合もあるが、それはやはり一たびそのままならぬものを経過してからの話である。」(同一九二ページ)

と説かれています。

一度そのままならぬものを経る、分別を否定する、すなわち無分別を経験しないといけないというのです。

盤珪禅師も、はじめは明徳とは何かと求めて、あちこちの学者を訪ねてみたのですが埒があかずに、ようやくある禅宗の和尚に参じて、明徳はどのようなものかと尋ねると、明徳が知りたければ坐禅しろ、明徳がわかるまで坐禅しろと言われたのでした。

そこで坐禅にとりかかって、あそこの山に入っては、七日間もものを食べずに、ここの巌に入っては、直に尖った岩の上に着ていたものを敷いて、坐禅したら最後、自然ところげ落ちるまで坐を立たずに坐ったのでした。

そして故郷に帰って庵を結んでひたすら坐っていたのでした。

実際にこのままもう死ぬのではというギリギリの処まで坐禅して、そのままならぬもの、無分別を透過したのです。

その結果不生でよいと気づかれたのであります。

やはり一度分別の否定を体験してこないと、ただなにもせずに、「このまま仏」と受け取るのは難しいと、私も思うのであります。

そのままならぬものを経てこその、そのままが仏だと言えましょう。

 
横田南嶺

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