うらみなさによりてのみ
毎日新聞の論説委員である小倉孝保さんが書かれています。
「スリランカの恩」という題でありました。
紹介します。
「戦後、日本の主権回復と国際社会復帰を決めたサンフランシスコ講和会議は70年前の1951年9月に開かれた。日本と連合国51カ国の代表が出席し、演説で自国の考えや姿勢を順次、主張する。」
というサンフランシスコ講和会議のことから始まっています。
「日本を勇気づけたのが、セイロン(現スリランカ)のジャヤワルダナ全権だった。」と書かれています。
当時ジャヤワルダナ氏は、蔵相でありました。後に大統領になっています。
その折りに「憎悪は憎悪によってやむことなく、慈愛によってやむ」というブッダの言葉を紹介して、
「日本への賠償請求権を放棄する」ことを明らかにしたのでした。
「さらに、アジアの人々は日本の独立を求めていると述べ、「植民地として(欧米の)従属的地位にあったアジアの国民は、日本に深い尊敬を抱いている。アジアの中で日本のみが強く、自由だった」と語った。
セイロンは19世紀初め、英国の植民地下に置かれ、英連邦内自治領となったのは48年。スリランカとして完全独立したのは72年である。その6年後、ジャヤワルダナは大統領となる。
欧米支配に苦しめられたアジア人として彼は、植民地化を免れた日本に生涯敬意を抱き続けた。遺言で角膜の提供を申し出て、「右目をスリランカ人、左目を日本人に」と希望する。96年に亡くなると、元大統領の角膜は日本女性に移植された。」と書かれています。
ジャヤワルダナ氏のことは、八月二十五日にも「怨みを捨ててこそ」という題で小欄で書いて、話をしています。
そして
「その恩人を生んだスリランカの人々は今、日本をどう見ているだろう。ウィシュマ・サンダマリさん(当時33歳)が3月、収容先の名古屋出入国在留管理局施設で亡くなった問題は母国、スリランカでも報じられている。」と話を展開させています。
これは、「「留学」の在留資格で来日したが、その後に非正規滞在となり、入管施設に収容され、国外退去処分を受けた。収容から半年あまりの今年3月、33歳で病死した。」(毎日新聞八月十一日社説)ということがあったのであります。
改めてブッダの言葉を学んでみましょう。
岩波文庫の『ブッダ真理の言葉・感興の言葉』にある中村元先生の訳を引用します。
『法句経』にある言葉であります。
「三「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息むことがない。
四 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。
五、実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。」
というのであります。
思うに人類の歴史は戦いの歴史でもあります。
常に戦争が絶えることがないのが事実であります。
戦争はしないに越したことはありませんが、無くならないのも現実なのです。
ブッダの七歳のころの話が伝わっています。
冬が去り、春になり、釈迦国では、耕作はじめの祭式がとりおこなわれました。
幼少のブッダも父王や大臣たちと祭式に出席し、農夫たちが鋤で田を耕すのを見物していました。
うららかな日ざしの中で、動植物は生命力に満ち満ち、吹き来る春の風は土の香を運び、どこから見てものどかな光景でありました。
その時、農夫の掘り起こした土の中から小さな虫が出て来ました。
すると、小鳥が飛んで来て、その虫をくわえて飛び去りました。
その小鳥は、さらに、猛禽にねらわれました。
少年のブッダはこの弱肉強食の情景を目撃し、深く傷つき、「憐れにも生物たちは互いに喰いあっている」とつぶやいて、その場を離れました。
そしてとある樹の下に坐り瞑想にふけったのでした。
父王たちは少年を探しているうちに、坐禅を組んでいる少年を見つけました。
不思議なことに、太陽が移動しても、樹の陰は動かず、いつまでも少年を直射日光から保護していました。
この奇跡を見た人びとは大いに驚き、父王も思わず自分の子を伏しおがんだ、と言う話であります。
戦い、争いを好まないブッダの幼少期のお姿であります。
たとえやむなく戦ったとしても怨みを後に残さないようにすることを説かれたのでした。
「怨親平等」という教えがあります。
岩波書店の『仏教辞典』には、
「戦場などで死んだ敵味方の死の霊を供養し、恩讐(おんしゅう)を越えて平等に極楽往生させること。」と解説されています。
円覚寺の開創もまた、この「怨親平等」の心によっております。
弘安四年に二度目の元寇がありました。
その翌る年の十二月に円覚寺が開山されています。
その時に執権北条時宗公は、千体の地蔵を造って、ご供養を願いました。
開山仏光国師は、怨親平等のお心で敵味方を区別することなく供養されたのでした。
実に怨みをすててこそ息むという真理に基づいたのでした。
中村元先生は、
「生きて、敵味方に分れて戦っているときには対立があるが、死んでしまえば対立を超えるのである。元寇のあとの法要では、わが軍の将士の霊を弔うのみならず、元軍の将士の霊の冥福を祈っている。島原の乱のあとでは、殺された切支丹側の人々の冥福をさえも念じて、怨親平等の法要が行われている。
われわれの祖先は、国と国との対立を超え、異なった宗教の間の相克を超えて、敵味方の冥福を祈ったのである。
この崇高な、和(やわらぎ)をいとしむ日本の伝統的精神が明約維新のころから失われたのではないかと思う。」
と述べています。(『中村元 生誕100年 仏教の教え 人生の知恵』河出書房新社刊行 「靖国問題と宗教」(「ジュリスト」一九八五・一一・一〇)より)
『法句経』の友松円諦先生の訳を参照します。
まこと 怨みごころは いかなるすべをもつとも 怨みを懐くその日まで ひとの世にはやみがたし うらみなさによりてのみ うらみはついに消ゆるべし こは易らざる真諦(まこと)なり
「うらみなさによりてのみ」という生き方を忘れないでおきたいものであります。
新聞でジャヤワルダナ氏の名を改めて見て思ったことでした。
横田南嶺