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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.09.19
今日の言葉

火の中の蓮華 – 静かに坐っていればいいのか?

佐々木奘堂さんにお目にかかった折りに、奘堂さんが、

「祖師云く、「汝もし、心を住めて静を看、心を挙して外を照し、心を摂して内を澄まし、心を凝らして定に入らば、是の如きの流、皆これ造作なり」と。」

という『臨済録』の言葉を引用されました。

この祖師というのは荷沢神会のことです。

岩波文庫の『臨済録』にある入矢義高先生の訳によると、

「祖師は言われた、『お前がもし心を住めて寂静を求めたり、心を振い起こして外面を照らしたり、心を収束して内面に澄ませたり、心を凝らして禅定に入ったりするならば、そういうやりくちはすべて無用な作為だ』と。」

ということです。

心をとどめて寂静を求めたり、内面を澄ませたりすることは、悪い事ではないように思われます。

そのようにして心を調えるのが修行だと思われますが、臨済禅師はその前のところで、

「坐禅にとりかかり、雑念を押さえこんで起こらぬようにし、喧騒を嫌い静けさを求めるが、こんなのは外道のやり方だ。」

と実に手厳しく否定されているのであります。

静かな処、静かな時間を選んで、静かに坐っているということでは、一日のうちでも特定の時間や特定の処でしかできなくなります。

奘堂さんは、正受老人の説かれた「不断坐禅」ということを力説されています。

不断というのは文字通り断え間なく行うことです。

正受老人の言葉が、白隠禅師の『遠羅天釜』に説かれています。

禅文化研究所発行の白隠禅師法語全集第九冊『遠羅天釜』にある芳澤勝弘先生の訳を参照します。

「不断坐禅ということを学ぼうとするならば、たとえ喧嘩や殺し合いや悲しみ泣き叫ぶような修羅場にいても、また相撲や格闘技を見たり管絃歌舞を聴いたりする時でも、日常生活のあらゆる場合において、一切の分別心を起こさず、それらを一則の公案として一気に進んで退かないことである。

かりに阿修羅や大力鬼神に腕をつかまれ、三千大千世界を何千回も引きずりまわされても、いささかも失うことなく正念工夫し、たえず相続していける者を、真正参禅の衲子というのである。」

というのであります。

どんな状況にあっても正念を失わないように修行するのであります。

静かな時間に、静かな処を選んで静かに坐ることを、白隠禅師は「枯坐黙照」といって嫌われました。

こうも言われています。

「ひたすら枯坐黙照してそれに満足していたのでは、一生を無駄に費やすというものであり、仏道には大いに違背するばかりか、世俗の仕事もろくにできぬであろう。

役人が仕事をほったらかし、武士が武術の稽古も忘れ、農・工・商がそれぞれ仕事をほったらかして枯坐黙照しているならば、国は必ず亡びるであろうし、そんな禅は、それこそ不祥の大兆であると言われるであろう。

その昔、禅門が盛んであったころの中国の祖師方は、土木作業をし、水を汲み薪を集め、自ら畑で野菜を作っていた。合図の鼓が鳴ると、みな一斉に出て作務普請をして、もっぱら動中で得力を求める修行をなされたのである。

だから百丈大師は「一日作さざれば一日食せず」と言われたのだ。これが動中の工夫、不断坐禅というものである。こういう良風が近頃はすっかりなくなってしまったのである。」と嘆かれているのです。

単に静かに心を澄ますというのではなく、毎日の忙しい中でも修行するのであります。

これは白隠禅師ご自身の体験からくる反省であります。

白隠禅師は、このように述懐されています。

「私も若いときは修行の方法を誤っていて、心が静かに落ち着いたところが仏道だと思い込み、日常の活動を嫌って静かな所を好み、いつも人のいない所をさがしては坐ってばかりいたのです。」

というのです。

こういうことは悪いことではないように思いますが、そうしますと、

「ですから、日常のちょっとした事にも胸がふさがり心火が燃え上がる始末で、日常生活の中での工夫は少しもできず、何をしていても驚いたり悲しんだりすることが多く、心も身体も常に怯弱で、両腋にはいつも汗をかき、眼にはいつも涙を浮かべ、修行によって力を得るなどとということは、まったくなかったのでした。」

ということになってゆきました。

そういう反省を経て白隠禅師は、次のように説かれています。

「何をするにしても、常に心気を下腹部(臍輪気海丹田) に充実させることです。
仕事の合間、客人と応対する時も、日常生活のどんな時も、常にたゆまずこれを続けるならば、一身の元気は自ずと丹田に充実して、ちょうど瓢箪のようにふくらみ、皮をやわらかくする前の蹴鞠のように堅くなる。

このようになるならば、一日中、坐禅・読誦・写経・説法など、何をしても決して疲れることなく、心は次第にやかに、気力はいつも充実して勇壮になり、真夏でも扇を使わず、厳冬になっても足袋も着けず暖を取らず、百歳になっても歯も丈夫で、必ず長寿を得ることができます。そして、いかなる道も徳も成就することができるでしょう。」

というのであります。

そうかといって、静かなところで坐ることを全く否定するのではありません。

この点については、川尻宝岑居士が『坐禅の捷径』で次のように示されています。

「これみな日用動中の修行を示したものであって、さらに静中の坐禅を廃せよというたのではない。

あるいはまた動中の工夫の静中に勝ること百千万億倍(白隠の語として有名)などと示されてあるのは、学者が(修行者の)動中の工夫の難事を示されたもので、これまた静中の坐禅をせずともよいというのではない。」
というのは、その通りなのです。

「また伝燈相承数千の先徳に、静坐工夫に寄らぬ(依らぬ)高僧は一人もない。」というのも事実であります。

静かなところでしっかり坐ってこそ、日常の中でも修行ができるようになります。

そこで宝岑居士は、

「これらのことに考えもなく、一方向きの馬車馬見識で静坐工夫を軽く見る」ことの錯まりを指摘されています。

「静中にまさる百千万億倍の、または事上煉磨(日常差別のことがらの上で心を練り磨く)のというのであるが、その実は妄想分別の考えものにしている」ということにもなりかねません。

そのようにして、しっかり坐って修行した上で、現実の様々な事務の忙しい中においても修行してゆくのであります。

そのへんを永嘉大師は『証道歌」の中で、火中の蓮に喩えています。

「欲に在って禅を行ず、知見の力、火裏に蓮を生ず、終に壊せず」というのです。
六塵五欲の現実世界にあっても、蓮が泥中に咲きながら汚れぬごとく、純一に心を用いよということであるのです。

この辺を白隠禅師は、『遠羅天釜』に、

「そもそも蓮は水中に咲く花であるから、火に近づけたならばたちまち枯れ凋んでしまう。

だから火気は蓮にとってはこの上ない毒である。ところが、火の中から咲き出た蓮は、火に向かえば向かうほど、いよいよ色香を増して美しくなるのである。

最初から五欲を避け嫌って修行した者は、いくら仏理に通じ、いくら見道が明らかであっても、静中を離れ動中の現実に向かうと、えびが水を失い猿が林樹を離れたごとく、少しの気力もなくなり、さながら水中の蓮が火気に逢ったように、たちまち枯れてしまうのである。」

と示されているのです。

この現実の只中でも生き生きと活動できるように、そのための力を静かに坐って養うことなのであります。

静かなところがいいと愛着を起こしては、ならないのであります。

 
横田南嶺

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