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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.06.14
今日の言葉

言葉は無力か?

毎日新聞の六月八日の夕刊に、国語学者の金田一秀穂先生の記事がございました。

はじめにある言葉に引きつけられました。

記事から引用しますと、

「「コロナの社会において、言葉が果たせる役割は終わったのではないでしょうか」。言語を研究する立場の金田一さんから出た言葉に、思わず絶句した。」

というのです。

あの言葉の専門家の先生が、言葉の果たす役割が終わったというのはどういうことだろうかと思いました。

記事では、

「政府は「人流抑制」なる目標を掲げ、またも我慢の時と呼び掛ける。だが、そんなコロナ対策を訴える言葉が、人々の生活や行動を変えている実感は乏しい。」

と書かれていて、これはなるほどその通りだと思います。

金田一先生は、

「人流なんて言葉はこれまで聞いたこともありませんでした。 コロナの世界では、標語のような新しく未成熟な言葉が次々と出てくる。テレビも新聞もそれをオウムのように繰り返す。 同じ言葉を反復しても高圧的と受け取られ、人の感情には届かず上滑りしてしまいます」

と仰せになっています。

「人流」という言葉の響きに違和感を覚えていましたので、全く同感であります。

金田一先生は、大学でも教えておられて、リモートの授業についても疑問を呈しています。

「本当の授業というのは、先生も生徒も同じ教室にいて、同じ空気を吸いながら学ぶもの。

このままでは大学という建物は必要ないと言われかねない。」

と話されています。

オンライン授業もやむを得ないということは私も十分理解しています。

しかし、もしも可能であれば、直接話をしてあげたいという思いを私も持っていますので、今も花園大学には、何とかして出掛けて話をするように努力しています。

更に金田一先生は、

「リモート会議も本題の議論が終われば、直ちにボタンをプチッと押して画面を切るしかない。余韻なんてありません。実際に顔を合わせると、その後は世間話に花が咲くはずなんですけどね」

とお話になっています。

金田一先生は、

「言葉を交わす。人はそれだけで心を通わせ、他者との関係を確かめ合うことができる。そこに価値があるので、極端に言えば内容や意味などなくてもいいんです。」と仰っています。

記事では、

「好例が「おはよう」などのあいさつで、情報はほぼ得られないが、日常的に交わされると親しみが湧いてくる。

だが、コロナ禍では勝手が違う。会話を控え、用件は手短に済ませなければならない。」

という今の状況なのであります。

どうでもいいような雑談にも大きな意味があると思います。

はたして言葉は無力なのかと考えさせられるのですが、

毎日新聞の八日の朝刊に、香山リカ先生がコラム記事で、「気持ち伝える一言」という題で書かれていました。

香山先生が、あるスーパーの前を通った時のこと、店舗の前のスペースで従業員達が作業をしていました。

アルバイトらしい一人の若い男性が横を通って、作業中の人たちに、

「おつかれさまでした」「お先に失礼させてもらいます」と挨拶をしたそうです。

すると六十代よりは上に見えるという従業員の方が、大きな声で、

「お、ごくろうさん。明日もたのむよ!」と言ったのだそうです。

声をかけられ若者は、「はい」と元気に答えていたというのです。

香山先生は、それだけのことだけれども、「なんだか私は胸がジーンとした」と書かれいてます。

どんな仕事でもたいへんで、その日の終わりには疲れでいっぱいになるし、うまくゆかなかったこともある、そんな時に、上司や先輩に「明日もたのむよ!」と声をかけられたらどんなに嬉しいだろうかというのであります。

自分は必要とされていると思えれば、疲れも吹き飛ぶような気がすると香山先生は書かれていました。

香山先生も、ご自身職場や学校で若い人たちに、「明日もたのみますね!」と声をかけられているだろうかと考えたと書かれています。

修行道場でも最近似たようなことがございました。

この春新しく入ってきた修行僧が、一所懸命に僧堂にある祖師方のお墓の草取りや刈り込みをしていたそうです。

蒸し熱い中汗を流しながら、作業して、終わった後に、先輩の雲水が一言、「きれになって、さっぱりしたね」と声をかけたそうです。

その一言がうれしかったと言っていました。

まだこの春入ったばかりの修行僧にとっては、慣れないことが多くて普段の暮らしをするだけで大変なのです。

そんな中で、先輩のたった一言が大きな力になることがあります。

その声をかけた修行僧も立派であります。

仏教では四摂法という、人の為に行う四つの教えがあります。

それは、布施と愛語と利行と同事であります。

布施は文字通り、施しをすることです。

何か物を差し上げることや、大事な教えを施すこともございます。

次には、愛語で、 優しい言葉、気持ちを動かす言葉、心に染み入る言葉を相手にかけてあげることです。

それから利行は、困っている人に何か手助けをしてあげることです。

最後の同事というのは、相手の立場とひとつになってはたらいてあげることであります。相手の身になって行うものです。

どんな時代であっても、どんな状況であっても、愛語は大きな力があるものです。

とりわけ、普段の何気ないない会話の中の一言が、大きな力になることがあると信じています。

 
横田南嶺

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