仏の心はどこに
坐禅会などでは、この坐禅和讃を唱えることが多いので、お存知の方も多いでしょう。
衆生は、人々のこと、もっと言えば命あるものを言います。
あらゆる命あるものは皆もともと仏であるということです。
ここには、人は皆仏の心を持っているいう教えが根底にあります。
皆仏の心を持っているという教えは、普段盤珪禅師の語録などを学んでいると、仏教では当たり前の教えのように思われますが、そうではありません。
長い仏教での歴史の中で、醸成されてきたものなのであります。
その萌芽は、初期の仏教経典からも読みとることができます。
増支部経典には、
「この心は明浄である。しかしそれは客塵煩悩によって汚されている。」
と説かれています。
心は本来清らかなものであって、それが煩悩によって汚されていると説くのであります。
客塵煩悩とはどういうものかというと、岩波の『仏教辞典』には、
「煩悩すなわち、心を汚(けが)し、悟りを障(さまた)げる機能は、心に本来具わったものでなく、単に一時的に付着した塵のようなものにすぎないという主張。
客とは、主人に対する客、すなわち、外来の、一時的滞在者をいう。
塵は、ハンカチーフについた汚れのように、洗えばおちるのに譬(たと)えて加えた語。
心の本性が光り輝いている(自性清浄(じしょうしょうじょう))のと対比される。
阿含経(あごんぎょう)から大乗に至るまで、広く認められるが、とくに如来蔵(にょらいぞう)思想で強調する。」
と解説されています。
つまり心の本質は清らかなものであるにも関わらず。外から一時的に煩悩が付着しているのだということです。
そこで仏道修行とは、本来清らかな心に付着した煩悩を取り除こうという営みだといえます。
しかし、そのように、本来清らかな心と、外からくる煩悩というように相対立するものとしてとらえるのではない立場をとるのが、中国唐代の禅僧馬祖禅師たちの一派でありました。
「水中の塩味、色裏の膠青」という譬えがございます。
『十牛図』にも出て参ります。
この譬えが、馬祖禅師の立場をよく表していると言えます。
入矢義高先生の『禅語辞典』の解説では、
「水のなかの塩気、絵の具に溶けたにかわ(定着液〉。実在するけれども姿は見えないものの譬え。」
とございます。
仏心は塩です。それは水の中に溶けているのです。
水は、煩悩も含めた私たちの心の全容であります。
塩水の中には、どこをとっても塩が含まれています。
塩だけを取り出すわけにはゆきません。
もっとも塩水を蒸発させれば塩を取り出せますが、そういうことではありません。
眼に見ることはできないけれども、水の中に完全に溶け込んでいるということです。
絵の具に溶けた膠というのは、日本画の譬えであります。
日本画では絵の具の顔料を膠で溶きました。
水彩画では、絵の具を水で溶きますし、油絵では、絵の具を油で溶くのです。
溶くのに用いた水や膠、油などは眼にみえません。
しかし、絵をみれば、どんな色にも必ず水や膠、油は含まれているのです。
眼にみえるのは、赤青黄色の色彩ですが、その色彩の中に、絵の具を溶いた水や膠、油はみえないけれども含まれているということです。
仏心は、この水や油、膠のようなものだという譬えです。
山田無文老師の『十牛図』の提唱から、学んでみましょう。
無文老師は、
「水中の塩味、色裏の膠青
これは善慧大師の『心王銘』の中にある言葉である。
流水の中には塩気があるが、見ただけでは分からん。
絵の具の中には必ず膠が溶かしこんであるが、見たところは緑青やら紅やら、色が見えておるだけで膠は見えん。
ちょうどそのようなものだ。
お互いの仏性も、姿もなければ形もない。色もない。
しかし、お互いのはたらきの中に、そこにちゃんと仏性が含まれておるのじゃ。
見たり聞いたりしゃべったり、泣いたり怒ったり笑ったりしておる、そいつが仏性ではないか。
それをとってのけて、どこにも仏性があるはずはない。」
と説かれています。
「仏性とははたらきである。眼にあっては見るといい、耳にあっては聞くといい、鼻にあっては香を嗅ぎ、口にあっては談論する。
そういうお互いの意識の働きの中に、……仏性まるだしである。
どこにもかくすところはない。」
というのです。
「仏性は真綿に包んで桐の箱の中に入れてしまっておくような茶道具ではない。
お互いが日常に働いていくところに、お互いの仏性というものがはっきりと出ておるのだ。仏性とははたらきである。」
と説かれています。
馬祖禅師は、
「いま君が見たり聞いたり、知覚したり認識したりするその働き、それがもともと君の本性あるいは本心というものであり、この心を離れて別に仏があるのではない」と示されています。
入矢義高先生は、『馬祖の語録』のなかで、
「ここにいう『心』とは、純粋培養によって析出された真心でもなければ、理念的に超越化ないし内在化されたイデーとしての本心でもない、
それは生き生きと日常底において働く平常心であり、それも〈平常心〉一般なのではなくて、個々の人それぞれの、それなりな「あたりまえの心」である」
と解説されています。
これが「平常心」の本来の意味でありました。
仏心と同じはずの心を出せなどと言って迫るものではなく、「分かりません」という弟子には、その「分かりません」という心が実は仏心にほかならないと諭されました。
そしてそれは心だけに限定されるものではなく、日常のあらゆる営みにも、すべてそれがそのまま仏の現れだと説かれたのでした。
ですから、馬祖禅師は仏道は取り立てて修行するものではないと説かれたのでした。
習い修めようとするものではないというのです。
更に馬祖禅師は、仏心の働きのなかで、お互いはご飯を食べたり、服を着たり活動しているのだと説かれるのです。
大いなる仏心に抱かれて、そのなかに坐禅をし掃除をしているのであります。
そうしますと、その坐禅するという営み自体、食事をしたり掃除するその行為そのものが、仏の心の現れなのであります。
そんな気持ちで坐禅し、食事したり掃除すると、安らかな心でいられるのであります。
横田南嶺