親の祈りごころを
徳永康起先生は、「明治以後のわが国の教育界における『百年一出』の巨人」、「超凡破格の教育者」とまで森信三先生が高く評価されたのでした。
坂田先生は、森先生が複写ハガキの大切を説かれ、その一番の深い実践者である徳永先生から指導を受けたと仰っていました。
徳永先生は、三十代で小学校の校長になるのですが、五年で校長を辞めて一教師に戻られた方です。
教師の仕事は、教壇に立って教えることだという信念でした。
坂田先生の『ハガキ道に生きる』には、徳永先生は昼食を食べないということが書かれています。
坂田先生が、なぜ昼食を食べないのか聞いたのだそうです。
終戦直後、貧しくてお弁当を持って来られない子どもがいたらしいのです。
昼食の時間になると、そっと校庭にでて遊ぶ子が数人いることに徳永先生は気がついたのでした。
その子たちは、お弁当を持って来られないのです。
それを知って徳永先生はぴたっとご自身の昼食をやめてしまったのです。
昼食の時間になると、徳永先生は一番先に校庭に出ていって、その子たちと遊んだのだそうです。
この一事をみても、すばらしい先生であることがうかがえます。
坂田先生の本に、切り出しナイフが盗まれたことが書かれています。
あるとき学校で工作用の切り出しナイフを持ってくるようにお願いしました。
皆親に買ってもらったのでした。
ところがある生徒は、親に頼むことができませんでした。
その子は、貧しいわけではありません。
頭の良かったお兄さんといつも比べられて、叱られてばかりいたのでした。
学校でお金がいるときでも、兄が頼むと親は快く出してくれるのですが、その子が頼むと渋い顔をされたのでした。
だからその子は親に頼めずに、おとなしい同級生のナイフを盗んだのでした。
盗まれた子は、「ナイフがなくなった」と騒ぎました。
徳永先生は、誰が盗んだのか分かったのですが、すぐに生徒たちを全員校庭に出したのでした。
そして、その子の机を探してみると、やはりナイフが見つかりました。
そのあと、徳永先生は、自転車をこいですぐに金物屋に行って、同じナイフを買ってきて、無くなったという生徒の本にはさんで、机の奥に入れておきました。
生徒が教室に戻ってくると、徳永先生は、盗まれたと言っていた生徒に、
「きみは慌て者だから、もっとよく調べてごらん」と言いました。
するとその子は教科書の間に挟まっていたナイフを見つけ出して、
「ああ、あった」と喜びました。
徳永先生が盗んだ生徒をチラッと見ると、涙いっぱい眼にためて先生を見ていたのでした。
その子は、やがて大きくなって昭和十九年ニューギニア戦線に出撃しました。
いよいよ明日米軍と空中戦という前の晩、もはや生きて帰れぬと覚悟して、徳永先生に手紙を書いたのでした。
「先生はあのとき、ぼくをかばって許してくださいました。
本当にありがとうございました。
死に臨むにあたって、先生にくり返し、ありがとうございましたとお礼を申し上げます」
そして最後には、
「先生、ぼくのような子どもがいたら、どうぞ助けてやってください。
本当にありがとうございました。さようなら」
書き添えてありました。
そしてニューギニアのホーレンジャー沖の海戦で、米軍の戦艦に体当たりして散華したと、これは神渡良平先生がまとめられた『人を育てる道 伝説の教師 徳永康起の生き方』(致知出版社)に書かれています
同書によると、
徳永先生は八重くちなしの苗を買い求めて、彼の墓前に植えました。
「八重くちなしの花は香りがよくて、土の中で眠っている君の魂まで届き、芳香で温かく包んでくれるだろうと思って……。
この花が咲くころ、きっと君は生きていたころ、いろいろ苦しかったことを思いだすだろう。だから君のお墓は八重くちなしで包んでやりたいんです」
というのでした。
徳永先生の教え子からたくさんの戦死者が出ました。
徳永先生は毎年大晦日から元旦にかけて、板張りの床に正座して、戦死や戦病死した教え子の戒名、没年、死没場所などを和紙で綴じた冊子に毛筆で書いて、一人一人の冥福を祈ったそうなのです。
なんと素晴らしい先生なのかと思います。
坂村真民先生は、徳永先生のことを「康起菩薩」と呼ばれたそうなのです。
そんな先生に不幸が襲いました。先生の次男が突然事故で亡くなりました。まだ二十歳だったのでした。
志を達しないまま冷たくなったわが子に対面して、徳永先生は悲嘆に暮れました。
そのときに森先生が、徳永先生に出された手紙の内容を、神渡先生の本から引用させていただきます。
「おハガキはまったく夢としかおもわれませんでしたが、くり返し拝読して、夢ではなく、現実であり、しかも現実の中では最深の悲痛であることの動かぬ感がします。
それにしても、一体どういうことでしょう。
まったく天道ありや無しやと申したい感がいたします。
天はどこまでも冷厳にあなたという方を鍛えるのでしょう。
はたで見る身が辛くて耐えられない思いです。
奥さまに何とお言づていただいたらよいのか、まったく言葉がありません。」
という心のこもったお見舞いであります。
徳永先生は、この悲しみを抱いて、より一層学校では陽の当たらない子たちを抱きかかえようと決心されました。
それらの子が育つことこそが、わが子への供養だと思ったのでした。
そんな深い悲しみの底から出てきた言葉が、
まなこ閉じて
トッサに親の祈り心を察知しうる者
これ天下第一等の人材なり
というのでした。
坂田先生に出逢い、坂田先生の『ハガキ道に生きる』を読み、更に神渡良平先生がのご労作『人を育てる道 伝説の教師 徳永康起の生き方』を拝読して、心が暖かくなりました。
こんな心を大切にしたいものであります。
横田南嶺