くもに教わる
お湯の中に漂っていましたので、もう死んでいると思いました。
小さな蜘蛛ですが、どういうわけか、お湯の中に入って沈んでしまったのでした。
せっかくの人生、いや蜘蛛の一生が、最後は配水管の中で終わるのは、気の毒なのでお湯の中から手でそっとすくい上げて、乾いた所に置いてあげました。
お風呂から上がったら、せめて最後は土に返してあげようと思ったのでした。
ところが、湯船につかっていると、かすかにその蜘蛛が動いたように感じました。
お湯の中に沈んでいたのですから、まさか動くことはないだろうと思いました。
ところが、段々蜘蛛の身体が乾いてきて、本当に動きだしたのでした。
なんと蜘蛛は生きていたのでした。
動き出した蜘蛛をよく見ると、ちゃんと八本の足はみなそろっています。
丁寧にすくい上げたのでよかったなと思いました。
やがて蜘蛛は、どこかに去ってゆきました。
ひとり湯船につかりながら、何か良いことをしたなと思っていました。
寺にいますと、いろんな虫や獣がたくさんいます。
夜は戸の開け閉めにもやもりに気を付けないと、あやまって戸にはさんでしまうこともあります。
この私など、ろくろく何のお役にも立たない暮らしをしていますので、せめて無益な殺生はしないようにと心がけているつもりです。
小さな蜘蛛ですが、あのまま気がつかずにいたら、間違い無く死んでいただろうと思いますので、すくい上げて良かったなと思ったのでした。
蜘蛛を救ってあげることができたのだと思って、何か似たような話があったなと考えました。
そう、皆さまもご存じの蜘蛛の糸の話であります。
あれはお釈迦様が、ある日極楽の蓮池のほとりを散歩していました。
はるか下には地獄があって、犍陀多(かんだた)という男が苦しんでいました。
犍陀多は生前、多くの凶悪な罪を犯していたのでした。
お釈迦様がご覧になると、しかしそんな犍陀多でも一度だけ良いことをしていたことが分かりました。
それは道ばたの小さな蜘蛛の命を思いやり、踏み殺さずに助けてやったことでした。
お釈迦様は彼を地獄から救い出してやろうと思って、地獄に向かって蜘蛛の糸を垂らしました。
犍陀多が顔を上げると、一筋の糸がするすると垂れてきました。
これで地獄から抜け出せると思って、その蜘蛛の糸を掴んで一生懸命に上へとのぼりました。
のぼっていた犍陀多は糸の途中にぶらさがって下を見ました。
すると多くの罪人が、蜘蛛の糸にしがみついて上ろうとしています。
このままでは重みに耐えきれずに蜘蛛の糸が切れてしまうと考えた犍陀多は、「こら、この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。下りろ。下りろ」と大声で叫びました。
すると突然、蜘蛛の糸は犍陀多がぶらさがっているところからぷつりと切れてしまい、彼は罪人たちといっしょに地獄へと、まっさかさまに落ちてしまいました。
この一部始終を上から見ていたお釈迦さまは、悲しそうな顔をして蓮池を立ち去ったという話であります。
この話は、仏教の経典のどこを探してもないそうなのです。
聞いた話でありますが、この話のもとは、ポールケーラスという方が書いた書物にあるそうなのです。
それは『カルマ』という題の小説で、鈴木大拙先生が翻訳して『因果の小車』という書物となっています。
その書物を読んでみると、
犍陀多が蜘蛛の糸に多くの人がすがりついてくるのを見て、
「去れ去れ、この糸は我が糸なり」と叫ぶと糸が切れて奈落に落ちたと書かれています。
これは我が糸だという、我執に一念によって糸が切れたのだと説かれています。
我執の念は滅びの道であり、地獄というのは、この我執に一念にほかならないのだと説かれているのであります。
芥川龍之介は、こういう仏教的な教訓を省いて小説にしているようであります。
ちょうど、森信三先生の『不尽精典』を読んでいると、森先生は、
「宗教とは、第一に「我執」という枠がはずれること。
第二には、現実界そのものがハッキリと見えるようになること。
第三には、この二度とない人生を、力強く生きる原動力となること。
真の宗教には、少なくともこうしたものが無くてはならぬでしょう。」
という一文があって、さすが森先生の炯眼だと感服していました。
「我執」の枠がはずれるということは、言葉にするのは簡単ですが、実に容易なことではありません。
森先生は、『不尽精典』には、
「お互い人間は、この肉体をもっている限り「我」の根の切れる時は、厳密には無いといえましょう。
それ故「我を捨てよ!」とか「無我になれ!」などというよりも、むしろ相手の気持ちになり、相手の立場を察するようにーという方が、具体的で分かりやすく、これなら心がけ次第で、だれでもある程度は出来ましょう。」
或いは、
「わたくしたちが人間として生きてゆく上で、もっとも大切な心がけの一つは、「相手の立場にたって」ものごとを考えるということであります。」
と説かれています。
そうです、まずは相手の身になって考えてみましょう、というところから始めたいものであります。
お風呂につかって、そんな事を考えていました。
蜘蛛の身になって、そっとすくい上げたのがよかったのでした。
小さな蜘蛛に教わったことです。
横田南嶺