お位牌になって
近場ですと県内の小田原や横浜の仏教会や、遠くですと山形や長野の仏教会などにまで出向いていました。
そんな中で、埼玉の鴻巣の仏教会に招かれて出向したことがありました。
その時の講演会以来、鴻巣にある善勝寺さまとご縁ができました。
講演の時にお世話になって、その後善勝寺さまで発行されている『善勝寺だより』という寺報を季節毎に送っていただいています。
よくお寺でも布教に熱心なご住職は、お寺の寺報を作って、そこにいろんな仏教の教えを書いたり、寺からの様々な行事のご案内をされているのです。
『善勝寺だより』はB4の紙裏表に印刷されたものですが、イラストがたくさん入っていて、それに四コママンガもあるのです。
手作り感もあって、読みやすいように工夫されています。
ひと頃、私の延命十句観音経についての文章をずっと転載してくださっていました。
そんなこともあってか、ずっと送っていただいています。
こういうご縁が続くということも有り難いことであります。
さて、その『善勝寺だより』、春彼岸号を送っていただきました。
編集後記には、有り難いことに、私がこのたび出版した冊子『六はらみつの心』をお詣りになった方にご自由にお持ちいただくようにしていると書かれているのでした。
善勝寺さまは、同じ臨済宗ではありますが、円覚寺派でなく、妙心寺派なのであります。
円覚寺派でも私の冊子を配ってくださるようなお寺は少ないのですが、他派のお寺でこうして活用いただいているとは驚き、感激しました。
その『善勝寺だより』の最後のページに「よくある質問コーナー」という欄があって、今回は、「位牌は必要なものですか」という問いが書かれていました。
ご住職が書かれている文章だと察します。
「お葬儀の後、「位牌は作らなくてはいけないのですか」と尋ねられることが多くなりました」と書かれています。
どういう訳かなとおもうと、
「自分が死んだ後、守る者がいない」
「残された者が困るのでは」
「置く場所に困る」
「仏壇も買わなくてはいけなくなる」
という様々な事情があるというのです。
ご住職の結論は、どのようなものかというと、
「あるに越したことはないのですが、位牌をご自宅にお祀りしないことを咎めるものではありません」
と書かれていました。
その結論の前に、位牌の由来について親切に解説されていました。
位牌の起源は中国にあります。
中国では、人が死ぬと、「魂(精神)」と「魄(肉体)」が分離し、魂(魂気)は天に帰り、魄(形魄)は地に帰ると考えられているとのことです。
魂は雲のように漂うので、依り代となるのが位牌だということです。
魄はお骨となり、埋葬してお墓となります。
位牌には、氏名、官位などを書いて記し、日本では鎌倉時代に禅僧によって伝えられたと書かれています。
江戸時代には一般庶民にも広まっていったのでした。
中国では儒教や道教で故人(先祖)を尊び敬い、日本でも古来から先祖崇拝の心が篤く、仏教と直接関係がないのですが故人を位牌として祀ることが根付いていきましたということなのです。
その起源が仏教とは直接関係がないので、お祀りしないことを咎めるものではないというのでしょう。
でも「あるに越したことはない」という一面もあるのです。
ご住職も、
「位牌の良いところは、故人と会話ができることです」と書かれています。
「位牌となり会話が増えた女房かな」という川柳を紹介されています。
更に
「生きているうちはあまり会話しなかったが、故人となった奥さんの位牌には頻繁に話しかける、さみしくなったご主人の姿が目にうかぶようです。
それぞれの事情にあった祀り方をして、話しかけてください、きっと心が落ち着き癒やされることでしょう」
と書かれていました。
そんな『善勝寺だより』を拝読していて、十七年前の『中外日報』の記事を思い起こして、探し出して読み返してみました。
奈良康明先生が、「お位牌と癒し」と題して書かれたものです。
高名な仏教学者であった奈良先生は、「現代では位牌の機能はより現実的な癒しに関わっている面がある」と指摘されています。
奈良先生は、二十一歳の息子を亡くしたご夫人のことを書かれていました。
「葬儀が済み、納骨し、四十九日にお詣りに行って、墓に手をかけたまま立てなかった。
三年たった今はもう落ち着いてきたが、それでも毎朝仏壇を開けて、お位牌にお茶をあげている。
「息子とおしゃべりをしているんです。心が安まるものですから」と彼女は言った。」
というのです。
そこから奈良先生は、
「私は精神分析学者の故小此木啓吾先生の論文、そして先生と対談した時(平成七年)のことを思い出していた。
先生は日米両国の女性で突然に夫を亡くされた方がどう立ち直っていくかを調査された。
精神的ショックと悲しさは皆同じだが、日本女性の方がどうしようもない心の悲しさや悩みを直接的に爆発させることがはるかに少ない。
その原因を調べていって、仏壇と位牌に突き当たったと先生は言われる。
位牌に食事やお茶を供え、あたかも生きているかの如く位牌に語りかける。
日常の生活、子供のこと、人間関係など、話題には事欠かないだろう。
鬱屈した心を位牌にぶつけることもあろう。
しかしこうして話し合うことによって心が落ち着き、癒されていく。」
ということです。
奈良先生は
「私は故人との会話は亡き人への端的な回向だと言っていいと思う」と書かれています。
小此木先生との対談で、奈良先生は、
「だからね、奈良さん、仏教界の人は何でこうしたお位牌の功徳をもっと説かないんですか」と言われたと書かれているのです。
位牌はたしかに仏教本来のものではありません。
お釈迦様が説いたものでもないのです。
そこで、そんなものは本来の仏教ではないと説かれる方もいらっしゃいます。
そういう説も尊いもので、本来の仏教はどうであったのかを検証する努力は大切であります。
しかし、仏教はやはり、その時代、その土地に馴染んで発展してきたのです。
お位牌に手を合わせ、お墓にお参りして、ご先祖の供養を通して、仏教に触れるという生き方もあるのです。
もうすぐお彼岸を迎えます。
お仏壇があればお位牌に手を合わせ、或いはお墓にお参りして亡き人と会話をして、亡き人に見守られていると感じて、ご先祖に恥ずかしくない生き方をしようと思うことは素晴らしいことであります。
そして、彼岸ですので、彼岸にいたるという本来の意味の「波羅蜜」を学んでもらえれば、これ以上のことはありません。
善勝寺さまは、このように本来の仏教を学んだ上で、正しくお位牌の意義を説かれ、ご先祖供養も大切になされ、そのうえで更に『善勝寺だより』という寺報を出して、仏の教えを説き、お彼岸には、私の小冊子『六はらみつの心』もお配りいただいているというのです。
申し分のない布教だと感じ入った次第です。
日本の仏教は、こうした和尚さま方の地道な布教の努力によって支えられてきているのです。
善勝寺さまが引用された川柳とよく似たものですが、私はよく、
「お位牌になって前より話してる」という句を紹介させてもらっています。
今ここに生かされているいのちが、お位牌を通じて、遠いご先祖から連なる大きな流れの中で受け継いでいることを感じて、更に今身近にあるかけがえのない人たちに、めぐり合えた事を有り難いと感謝できます。
お墓がお近くであればお墓に手を合わせ、お位牌があればお位牌に手を合わせましょう。
或いは吹く風、咲く花に、亡き人を身近に感じることができたならば、天地自然と自己とのつながりも感じることができるでしょう。
つながりが広がってゆけば、やがては「空」の世界、「無我」の世界へと通じてゆくのです。
■冊子『六はらみつの心』のプレゼント
——————————
応募方法 : お名前、郵便番号、住所、電話番号を宛先メールアドレスにお送りください。
宛先メールアドレス : event@engakuji.or.jp
締切日 : 3月25日(木) 17時まで
——————————
横田南嶺