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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.02.03
今日の言葉

言葉にならないもの

今年の正月に、明智光秀ゆかりの福知山城天守閣に年賀状が届いたのだそうです。

海原純子先生のコラム記事「新・心のサプリ」に書いていました。

長い間常に「裏切り者」としての評価しかされなかった明智光秀を、大河ドラマでは別の視点で描いているからだろうという話でした。

織田信長をヒーローとして描くと、どうしても明智光秀は裏切り者となります。

頭が固く融通が利かない者として描かれるのでしょう。

明智光秀から見れば、また別の見方がなされるのは当然です。

歴史上の人物像などは、だいたい後世に作られたものがほとんどでありましょう。
忠臣蔵で描かれる吉良上野介などは良い例でしょう。

浅野内匠頭のことをよく描くので、吉良は悪役になります。

しかし、本当にそんな悪人だったかは分かりません。

地元では名君として慕われていたといいます。

最近とある老師がお亡くなりになって、追悼集を作っていて、お弟子の方が、亡くなった老師は二重人格だったと書いて、問題になったという話を耳にしました。

老師の熱烈な信者さんにとってはけしからぬ暴言と思えたのでしょう。

しかし、長年老師と呼ばれる方にお仕えしていると、そう表現したくもなる気持ちも分かります。

私ども参禅する弟子に対する態度と、信者さんたちに対する態度とでは、別人にしか思えないほど違うのであります。

どっちが本当だったか、どちらも本当なのでしょう。

同じ人でも、見る人によって、人物像は変わるのです。生きている間でさえそうですから、歴史上の人物ならなおのことです。

どんな人にも良い面もあれば、悪い面もあるのは当然です。

もっとも世の中例外もあるもので、私がYouTubeで対談した細川晋輔さんや川野泰周さん、それに小池陽人さんなどは、どこから見ても良い人で、裏も無ければ影もありません。

そんな人は稀でありましょう。

こういうことは人間だけではありません。

「たとえば諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見るとそれは菫の花だとわかる。

何だ菫の花か、と思った瞬間に諸君はもう花の形も色も見るのをやめるでしょう…

…菫の花だとわかるということは、花の姿や色の美しい感じを言葉でおきかえてしまうことです」

これは小林秀雄氏の『美を求める心』にある言葉だそうです。

もっとも私が小林秀雄の本を読んだわけではなく、今読んでいる井上洋治神父の『イエスのまなざし』にあった一節です。

なるほどその通りと思います。

言葉で表すということは、ものそのものではなく、ある特定の概念を表してしまいます。

人物でも、「裏切り者」「英雄」などとレッテルを貼ってしまうのです。

井上神父は、

「言葉というものはたしかに貴重なものですし、人間だけがしゃべることのできるものかもしれません。

しかしこの便利な言葉というものも、ひとたび人間がこの言葉のなやましさに捕えられ振り回されるようになると、その虚構性のために、ほんとうのものの深さというものがみえなくなる恐れが多分にあることに気をつけなければならないのです」

というように深い考察がなされています。

人物像と同じように、それぞれのものにレッテルを貼ってしまうことになります。

井上神父は、

「言葉は人間のあたまが作りだした、いわばレッテルのようなものでしょう」

と述べておられます。

「菫の花に菫というレッテルを貼りつけて、他のタンポポや野菊などと区別することは便利なことにちがいありませんし、また必要なことでもあるのでしょう。

でもひとたび菫というレッテルを貼りつけてしまえば、それで菫という花がわかったと何となく思いこんでしまうところに、ほんとうのもののいのちをみるということの重大さを見失わせてしまう言葉というもののもつ魔術のなやましさがひそんでいることに気づかなければならないと思います」

というように、レッテルを貼ってしまうと、それで私たちは分かったような気になってしまうのです。

歴史の人物にしても同じでしょう。明智は裏切り者だったということにして、それで明智光秀が分かったような気になっているのです。

言葉で表現してしまうことで、ものそのものからは遠ざかってしまうのです。

井上神父の言われる「ほんとうのもののいのち」は、言葉にはならないし、言葉にしてしまうことで、却って見えなくなってしまうのです。

菫を菫だと言ってしまうと、ほんとうのいのちは見えなくなります。

そこで、禅では、「山は山ではない」というのです。

文字言語による表現を否定するのです。

山は、山である、この花は菫だというのが分別の世界です。

名前もなにもない、「ほんとうのもののいのち」に触れるのが無分別なのです。

井上神父の言葉は胸に響きます。

「真実の世界はうつろいゆく世界です。

大地から芽をだし、やがて大地に戻ってゆく草木のように、時の流れに浮かんでゆく世界です。

しかし、かたちの世界、言葉の世界は、ちょうどスナップ写真のように、このうつろいゆく世界をあたまでストップさせ、言葉の上にやきつけたものなのです。

その写真には、いちばん大切な死も大地も、うつってはいないのです」

というように、言葉による表現、概念化の限界を知ることが大切です。

更に井上神父は、

「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利久が茶における、其貫道する物は一なり」という松尾芭蕉が『卯辰紀行』の冒頭に書いた文を取り上げて

「この芭蕉の文をおもうとき、それこそ言葉にならないものなので何とよんでいいのかわかりませんが、日本文化の底を流れてきたものは、つねにこの「生きとし生けるものをささえている何か」をめざすものであったといえると思います」

と指摘されます。

そこで、

「この「何か」が、小さなおのれに執着し、我に惑わされている人間の心には決してうつるものではないと気がつかされたとき、風雲におのれを任せる西行や芭蕉のさすらいの旅というものが生まれてきたのでしょう」

と書かれています。

もちろんのこと、私たちの日常の暮らしは、言葉によって表現し、レッテルを貼って暮らさなければならないのですが、その根底には言葉にならない「いのちそのもの」の躍動があると分かっていることが肝要です。

人物にしても然り、いろんな人物評価があるのは、この世の習いです。どんな表現にも収まるものではないのだと知っておくことです。

坂村真民記念館の西澤孝一館長から、『風(プネウマ)』誌を送っていただいて、改めて井上洋治神父の本を読み直すと、感銘を受ける言葉がたくさんあるのです。

 
横田南嶺

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