松の影さえ見えりゃ
聞いておられたお年寄りが、あなたはそうして修行できて、すばらしい世界に目覚めたからそれでいいでしょうが、自分のようにもう坐禅の修行もできないものにはどうしようもないと言われて、朝比奈老師は悩まれました。
それからご縁があって、伊勢の一身田におられた村田静照和上を訪ねてお念仏を学ばれました。
そんな話を思い出して、村田静照和上の語録『念共讚裡』を紐解いていました。これは「ねぐさり」と読みます。
「松の影さえ見えりゃ、シメタもんじゃわなア」という一言が目に入りました。
村田和上にそう言われても、長年分からなかったという方が、数十年も経ってようやく「松の影が見えるのは、月が上がったからじゃわなア」と気がついたという話でありました。
本当に真っ暗闇の中では、松の影も見えないのです。
松の影が見えるというのは月の光に照らされているということなのです。
「松影のくらきは月の光かな」というのです。
また村田和上の師である七里恒順和上の言葉も書かれていました。
「貴殿方は御浄土参りの切符をお持ちかなーその切符というのは、松竹梅の切符。
松竹梅とは何じゃろうといえば、貪欲、瞋恚、愚痴の三つが松竹梅。
これさえあったら、きっと極楽浄土へ参れるぞー。
三毒の煩悩が見えたら、もう大丈夫ぞー」
というのであります。
三毒の貪瞋癡が見えるということは、貪瞋癡ではない仏心の光に照らされているからであります。
浄土門では、この三毒の衆生を救ってくださるのが弥陀の慈悲ということでありましょう。
いつも多読をしている私は、浄土門の本と同時に、『今ここを生きる』というヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェの本を読んでいます。
この本は、「新世代のチベット僧が説くマインドフルネスへの道」というサブタイトルがありますように、1975年生まれのチベットの高僧が書かれた本です。
先日藤田一照さんと話をしていて話題に出た本なので、買って読んでいます。
このチベットの高僧が、若い頃にパニック症候群と呼ばれる状態になって苦しまれていたそうなのです。
それを瞑想の修行によって克服されてゆくのです。
どんな修行かというと、本書の言葉で表しますと、
「思考や感情、 感覚が起こっては消えていくのを、ただ見守るようにします。
そして、「ああ、これが今、心に起こっていることなんだ」と認めるようにします」
ということなのです。
具体的にどのようなものか、もう少し本書の言葉を参照しましょう。
「心を通り過ぎていくそれぞれの思考、感情、感覚などを一つ一つ観察していると、限界のある自己という幻影は消えていきます。
そのかわりに、もっと広々とした、落ちついた、静かな「気づき」の意識という感覚が訪れます」
というのです。
思考、感情などは、「松の影」です。
それに気がつくことは、照らしている光があるのです。
それを「気づき」と表現しています。
もう少し本書の言葉をみてみます。
「仏教者の修行は、続々と起こる思考や感情、感覚にありのままに気づき、そこに心をただ休めることができるかどうかにかかっています。
仏教の伝統では、この穏やかな「気づき」の意識は「心の充実(マインドフルネス)」と呼ばれています。
心に本来備わる「明晰性」のなかにただやすらぐこととも言えます。
自分の習慣的な思考や感情、感覚のままに流されるのではなく、ただ、そういう思考が起こっている、そういう感覚が起こっている、と気づくことで、それらが持っている力が消えはじめます。
そうした思考や感情は、心の自然な機能として、起こっては消えていくものです。
それは海や湖の表面に起こる波のようなものです。
子供のころ、あれほど私を脅かした不安感に打ち勝とうと、安居の部屋の中で座していたときに発見したのは、まさにこのことでした。
心の中で何が起こっているのかを、ただ見守ること、このこと自体が心の中で起こっていることを変えてしまうのです」
と説かれています。
盤珪禅師は、念がいくら起きても、仏心の光の中に消えてゆくのだという教えに通じるものを感じます。
更に
「私たちがくつろいで、一歩うしろにさがって心を見つめていれば、すべてのさまざまな思考や感情はただ無限の心の中に去来するだけであって、心は宇宙と同じく、基本的にその中で起こることから何の影響も受けないことが、徐々に理解できるようになる」
というのです。
仏心の中に、念が湧いては消えてゆくだけで相手にしなくていいと盤珪禅師は説かれました。
盤珪禅師は、ただどのように修行をするのかという明確な階梯を示されませんでした。
チベットの瞑想などは、親切に教えが調っていると感じます。
いずれにせよ、浄土門の教えと、チベットの瞑想と表現は異なりますが、私には同じようなことを説いていると受けとめられるのです。
貪欲、瞋恚、愚痴の三毒が見えたらだいじょうぶというのは、阿弥陀さまのお慈悲の中にいる自覚に繋がります。
心の中に湧いてくる感情、感覚を見つめるとみな「気づき」の中に浮かんでは消えるだけで、心は何等影響を受けないというのは、仏心に通じます。
いろんなものを読んでいますが、お念仏もチベットの瞑想も、盤珪禅師の教えも説かんとしている真理は、まさに一つなのです。
本日は節分のようですが、円覚寺では節分の大きな行事はありません。
仏心の中には、鬼も仏も一つなのだと思って静かに坐って過ごします。
追い払う 鬼も無ければ 豆食らう
横田南嶺