心配はせよ、心痛はすな
毎月黒住教の方から送っていただいる誌面に、次のように解説されています。
心を痛めるのではなく、心を配りなさいという意味です。
心を痛めるとは「コロナ怖いな、罹ったらどうしよう」と自分の事だけを考え思い悩むことです。
それに対して心を配るとは、「自分が罹って他人様にうつすようなことになってはいけない。それにはどのような行動をとればいいだろうか」と他人様のことを思うことです。
そのような考えで行動することによって、コロナ禍は終息に向かうのだと思います」
と書かれていました。
黒住宗忠の教えには、「ご分心を傷めな」という言葉があります。
私たちの心というのは、神さまから分けていただいた尊いものであるので、これを痛めるようなことをしてはならないというのです。
あれこれと、なすべきことを気配りすることは大切ですが、必要以上に我が心を痛めることはないのであります。
山本玄峰老師も、心配は大いにしなければならないと説かれています。
これは心配り、気配りです。
龍沢寺の老師であった鈴木宗忠老師は、玄峰老師のことを、
「老師は、禅僧にありがちな相手を無視するようなことはなく、常に相手の身になって、いろいろなことを処理していたようです。
全くデリケートな神経をもって、事に当たっていたと思われます」
と記しています。(『回想 山本玄峰』より)
先の戦争で沼津が戦災に遭ったとき、玄峰老師は、焼け出された人たちの為に龍沢寺を開放されました。
ご自身のお住まいである隠寮を真っ先に明けて、時の沼津市長を入れられたそうです。
そして、「禅堂と典座寮(台所)があれば、修行にはこと欠かん」と、僧堂の様々な部屋から、客を招く為の書院から、次ぎ次ぎに罹災者に明け渡されました。
そして老師ご自身は、昼は庭に筵を敷いて「火事の後は、履物に一番困るものじゃ」といって、せっせと草履を編まれ、罹災者に差し上げて歩かれたそうです。
もっとも草履を貰った人は、
「老師さまの草履じゃ、もったいなくて……」と、大切に蔵って置く始末だったと、『回想 山本玄峰』に全生庵の住職だった平井玄恭師が書かれています。
こういうはたらきが、心配り、気配りというものでしょう。
もっとも、その心配りは、臨機応変に行われるので、おそばにお仕えしていた者にとっては、たいへんだったようです。
これも同じく平井玄恭師が、人に会う予定や法要や儀式の順序なども、その時の気分で勝手に変更されるので困ったと書かれています。
先輩の和尚からは、
「老師は予定や約束をたびたび変更するから、玄峰老師でなくて変更老師だと世の中では言っている。侍者たちはもっと気をつけてあまり変更されないようにせよ」と叱られたりしたとのことです。
そこで玄恭師も勇気を出して、
「中国には朝令暮改という言葉がありますが、老師はまるで、朝令昼改であり、そのように変更ばかりされては困りますよ」
と申し上げたそうです。
当の玄峰老師は、
「世の中は常に変わっておる。変更するのが当たり前じゃ、何事でも予定通りにはゆかないよ」
と一向気になさる様子はなかったとのことです。
これもまた、その時その時の状況に応じて心を配っていたからだと思います。
「心痛と心配」という言葉から玄峰老師の本を調べていました。
すると次の言葉が目に入りました。
「わしは長生きをしてよかったと思う。
今日は本を読んでおって、こんなことが分かった。
もし今迄に死んでおったならば、こんなことも知らずに過ぎてしまうところだった。長生きは有難いことだ」
と、これは九十歳を超えての言葉だそうです。
そうして九十歳を超えても病気でなければ昼間に横になることはなかったそうなのです。
そして更に驚いたのは、
「人間は何が楽しいといっても、自分で自分の心の移り変りを眺めておるほど楽しいことはない」
と言って、坐ることを楽しんでおられたということです。
自分の心の移り変わりをただ眺めるというのは奥深いものです。
玄峰老師ほどのお方でも、心は移り変わるのです。
それが自然なのです。
その移り変わりをただ見つめるのです。
それが楽しいというのです。
「人が死んだ時、挨拶をするのに、故人は草葉の陰で喜んでおりますとか、地下で安らかに眠っておりますなどという人があるが、人間は死んで身体は地下に行ったり、灰になったりするけれども、この心は地下にも行かねば、草葉の陰にもゆかぬ。天地宇宙に満ち満ちて、生き通しに生きておるのじゃ」
という言葉もまた至言であります。
仏心は生き死にを超えて、生き通しということです。
最後にもう一つ玄峰老師の言葉を紹介します。
「人に金や物を借りたならば必ず返せ。
返すだけでなく、寧ろ人に施すことを考えよ。
人に恩を受けたならば、必ず恩を返せ。
恩を返すだけでなく、寧ろ恩を施すことを考えよ。
借りをしないのは物品や恩だけでなく、人に対して思ってはならぬようなことを思った場合、
例えば、あいつは いやな奴だなあとか、羨ましい奴だなあとか、あんな人間は不幸になればよいんだ、
など良くない心が起こった時には、すぐ心の中で申訳ありません、と懺悔の心を起こして、悪い心を帳消ししておけ。
或いは食事で野菜を食べたり、魚や肉を食べたりするが、これは尊い物の生命を犠牲にして負い目を受けたことになるのだから、食事の度に相済まぬと慚愧と感謝の心を起こして、罪業消滅をして置かねばならぬ」
というのです。
これらもまた玄峰老師の細やかな心配りの一端であります。
禅僧というと小さなことにこだわらないような印象があるかもしれませんが、小さなことは侮れないのです。
学ぶべき教えであります。
横田南嶺