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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.01.28
今日の言葉

仏様を拝む

冬の寒い日の事、洛陽の慧林寺に旅の僧が立ち寄りました。

あまりの寒さに、たき火をして暖を取っていました。

ところが、そのたき火にくべているのは、どうやら寺の大事な仏像のようです。

気がついた慧林寺の僧が、驚いて、「どうして大切な本尊様を焼いたりしたのか」と怒鳴りつけました。

たき火をしている僧は、何食わぬ顔で、灰を掘り起こしながら、

「焼いて舎利を取ろうと思ってな」と答えました。

舎利とは、仏様のご遺骨のことです。

寺の僧は、あきれて言いました、「木の仏を燃しても舎利などあるものか」と。

すると旅の僧は、「舎利がないようなら、両脇の菩薩さまも持ち出してくべてしまおう」と言いました。

さて、仏様の罰が当たったのはどちらでしょうか。

仏像を燃してしまった旅の僧の方が仏罰があたったと思いそうなのですが、実は旅の僧を叱った僧に罰が当たったというのが、この話であります。

なんとも奇妙な話です。

旅の僧とは、ただものではありませんでした。

馬祖道一禅師の法を継いだ丹霞天然(739~824)禅師でありました。

馬祖禅師の教えは、「即心是仏」といって、心こそが仏であるというものです。

そこで、心の外に向かって仏を求めることを戒めたということに解釈できるのかもしれません。

馬祖禅師の教えでは、ああ寒い、寒い、といってブルブル震えながら、たき火をしてるその人の営みこそが、生きた仏の現れだということでしょう。

しかし、決して、これはまねしていいものではありません。

私たちは、同じ禅僧でも黄檗禅師が、常に仏さまを礼拝していて額にこぶができていたというお方をお手本にして、恭しく仏様を拝むことでありましょう。

仏像に因んで、もうひとつ古いインドのお話です。

優填王(うてんおう)という王様は、常にお釈迦様を敬っていました。

ある時お釈迦様が、九十日もの間、忉利天(とうりてん)に登って亡くなった母の為にお説法をされていました。

優填王は仏様が地上にいなくなってしまったので、仏師たちを集めて忉利天に行かせて、仏様の像を造らせました。

これを地上で拝んでいたという話です。

ところが、三十二相という仏様のすばらしい特徴を彫ったのですが三十一相は彫り得ても、梵音相を彫ることができなかったというのが禅の問題となっています。

この優填王が、拝んでいたという仏像が、鳩摩羅什によって、インドから中国にもたらされ、その仏像を日本から来た僧が拝んで感銘をうけて、同じ形の像を彫らせて、日本に持ち帰りました。

これが嵯峨の清涼寺の釈迦如来像だと言い伝えられています。西暦九八七年のことでした。

仏像にまつわる禅の話を思い起こします。

もっとも、この優填王の話は、後世に作られたものであって、お釈迦様のいらっしゃった頃から仏像があったわけではありません

お釈迦様がお亡くなりになってから、ずっと後になって、ガンダーラやマトゥラーではじめて仏像が作られたのでした。

同じ頃に大乗仏教も興ってきています。

もともと仏像を作る習慣はありませんでしたが、仏様のご遺骨をお祀りする仏塔の信仰が盛んでした。

大乗仏教は、この仏塔を守っている在家の人たちから興ったのだという説が長い間有力でした。

今では否定されていますが、『法華経』には、仏塔信仰が強く説かれていますので、仏塔に集まった人たちが作ったのかもしれません。

『法華経』には、仏塔を拝む功徳と共に、仏像を拝む功徳も説かれています。

「わたしは、三十二相をもって身体をかざられ、発する光明によってこの世を照らしています。

「数かぎりない者たちから尊敬され、この世のあるがままのすがた、あるいはそれを語る教えを、法華経というかたちで刻印するのです」(春秋社『現代日本語訳 法華経』正木晃)

という言葉が説かれています。

仏塔を礼拝する功徳が説かれた後に、

「如来のために、さまざまな仏像をつくり、彫刻して三十二相をあらわした者たちは、すでに悟りを開きました。

あるいは、七宝を素材につかって、仏像をつくった者たちもいました。

真鍮を素材につかって、仏像をつくった者たちもいました」

と説いて、そのあと、鉄や銅や、或いは木や粘土などいろんな素材で仏像を作ってもみな残らず悟りを開くと説かれています。

更には、その仏様のお姿を絵に描いたり、画家に描かせてもみな悟りを得ると説かれています。

それから、

「遊びで、草や木や筆、あるいは指の爪をつかって、仏像を描いた子供もいました。これらの者たちは、だんだんと功徳を積み、おおいなる慈悲心をわがものとして、ひとりのこらず、悟りを開き、数多くの菩薩たちを教化し、数えきれない者たちを、悟りへとみちびいたのです」

と説かれています。

子どもが戯れで、仏様の絵を描いても悟りを開くというのです。

そして、

「たとえ確固たる信仰心をもたないままであろうと、花をひとつだけ手にもち、如来の像や絵にささげて供養しただけで、やがて数えきれないほど多くの如来たちにお会いできるでしょう。

如来の像や絵を礼拝したり、手を合わせたり、あるいは片手だけをあげたり、頭を少しだけ垂れたりして、供養しただけで、やがて数えきれないほど多くの如来たちにお会いできるでしょう」

と説かれています。

なにも特別の信仰心を起こさなくても、合掌するだけで、或いはきちんと合掌しなくても、ほんのちょっと片手を挙げただけでも、また、ほんの一瞬頭を下げただけでも、また、ただ一度身体を屈めただけでも、一言「仏を礼拝したてまると」と言えば、それはたとえ取り乱した心で言っても、みな悟りを得ると説かれているのです。
仏像を礼拝する功徳というのは、それほど大きなものだと説かれています。

仏を礼拝すれば、妙心を生ずと申します。

仏を拝む、その心が仏の心です。

仏様を拝むことによって、自らの心が仏であることに気がつくことができるのです。

 
横田南嶺

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