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臨済宗大本山 円覚寺

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2019.11.23
僧堂提唱

去住自由

正しい見地を得たならば、「生死に染まず、去住自由なり」と臨済禅師は示されました。

生死即ち輪廻にも陥らずに、行くも留まるも自由自在、自らが主体となって決めることが出来るというのです。

では、「生死に染まず、去住自由」になるには、どうしたらいいのか、『臨済録』には実に端的が示されています。

「你、若し生死去住、脱著自由ならんと欲得(ほっ)すれば、即今聴法する底の人を識取せよ」なのであります。

訳すると「衣服を脱いだり着たりするように、自由に生死に出入したいと思ったら、今そこで説法を聴いているその人を見てとること」なのです。

その「即今聴法底の人」とは、どんなものかと言えば、

「無形無相、無根無本、無住処にして活潑潑地なり」なのです。

すなわち、「実は形も姿もなく、根もなく本もなく、場所も持たずに、ぴちぴちと躍動していること」なのです。

今聴いているものは何か、それなのです。

では、なぜ今聴いているものに気がつけば、生死去住、自由になるのでしょうか。

今聴いているもの、それを盤珪禅師は「不生の仏心」と称せられました。

更に盤珪禅師は、この仏心を、三界の外までも満ち満ちているので、どこかへ行きようがないと示されています。

どこにも行きようがないということに気がつけば、現象として現れているこの肉体が、どのようになろうとお任せになることができるのです。

そこを臨済禅師は、まさに「心法無形、十方に通貫す」と説かれました。

仏心は、なんの姿も形もなく、この十方世界を貫いているのです。

(雪安居月並大摂心提唱より)
 横田南嶺

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