去住自由
正しい見地を得たならば、「生死に染まず、去住自由なり」と臨済禅師は示されました。
生死即ち輪廻にも陥らずに、行くも留まるも自由自在、自らが主体となって決めることが出来るというのです。
では、「生死に染まず、去住自由」になるには、どうしたらいいのか、『臨済録』には実に端的が示されています。
「你、若し生死去住、脱著自由ならんと欲得(ほっ)すれば、即今聴法する底の人を識取せよ」なのであります。
訳すると「衣服を脱いだり着たりするように、自由に生死に出入したいと思ったら、今そこで説法を聴いているその人を見てとること」なのです。
その「即今聴法底の人」とは、どんなものかと言えば、
「無形無相、無根無本、無住処にして活潑潑地なり」なのです。
すなわち、「実は形も姿もなく、根もなく本もなく、場所も持たずに、ぴちぴちと躍動していること」なのです。
今聴いているものは何か、それなのです。
では、なぜ今聴いているものに気がつけば、生死去住、自由になるのでしょうか。
今聴いているもの、それを盤珪禅師は「不生の仏心」と称せられました。
更に盤珪禅師は、この仏心を、三界の外までも満ち満ちているので、どこかへ行きようがないと示されています。
どこにも行きようがないということに気がつけば、現象として現れているこの肉体が、どのようになろうとお任せになることができるのです。
そこを臨済禅師は、まさに「心法無形、十方に通貫す」と説かれました。
仏心は、なんの姿も形もなく、この十方世界を貫いているのです。
(雪安居月並大摂心提唱より)
横田南嶺