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臨済宗大本山 円覚寺

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2017.12.05

「自らの意思で」 一日一語153


山紅葉

 今、円覚寺専門修行道場(僧堂)では、臘八大攝心(ろうはつおおせっしん)が行われています。

臘八大攝心とは、お釈迦様が12月8日にお悟りを開かれたことを由縁として、

12月1日から8日までを1日とみなし、1週間、横にならずに坐禅し続ける、

雲水(修行僧)にとって、1年で1番厳しい修行期間のことを言います。

 横田南嶺老師が臘八大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 お釈迦様の難行苦行と今、我々がやっているこの修行と何が違うのでしょか?

決定的に違うのは、何であるか?

 お釈迦様ほど厳しい修行はしていないというそういう度合いの問題ではない。

何か一つ決定的な違いがある。それは、お釈迦様は、誰かに言われて

やったのではないということだ。

 「こういう苦行をしろ!」「こういうことをしろ!」と言われてやった

苦行ではない。

 それに対して、我々がやっているのは、言われてやっているのではない

だろうか?決められたことだから、やっているのではないか?

 果たして、自らの意思で臘八をやろうという気でやっているのか?

臘八は、寝たらいかんと言うから、仕方ない、柏蒲団を取り上げられ、

じっとしているのではないか?

 自らの意思で「よーし!寝ずにやろう」と思ってやっているか?

進んで行くものは、自ら進むけれど、嫌々やらされているのは、

昔の人が言うように、半紙一枚でも嫌々持たされるのは重いと。

 言われたことをこなすだけでは、本当の修行にはならない。

言われたこと以上に何をしていくか?何の道でもそうであろうかと

思います。言われて決められたことをこなしていくだけでは、

何にも得るものはない。

 講本下見の間や、坐睡(*臘八中は、午後11時~午前2時の間

横にならずに、坐禅の姿勢のままで休むことが許されています)の間も

休むなとは言いませんが、ほんの5分でも10分でも、たとえ、3分でも

「自分で坐ろう!」「自分でやろう!」という、そういう自らの意思を

持って臨んでいかなければ、まるで、病院の待合室で、順番を待って

ぼやっとしているような状況になってしまう。

 それでは、いくら1週間やっても、ただ、眠いのとお腹がすいたのを

我慢するだけで、全く得ることがない。我々は、多くのご供養をいただいて

こんな年末の忙しい時に1週間も坐禅をさせてもらえることは、本当は

有り難いことであるはずであります。

 どうか、もう一度、原点に帰って、お釈迦様は誰かに言われて苦行を

したわけではない。自らの意思で、脊梁骨を立て、己と戦っていかれた。

 そこに仏教が開かれていった。この道が開かれていった。我々は

それを学んでいるのであるということを自覚しなければならない。

古人が何を求めたのか?これを求めていかなくてはならない。

(平成29年12月4日 臘八大攝心提唱より)

「自らの意思で」 一日一語153

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