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臨済宗大本山 円覚寺

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2018.11.25

「海印三昧」

経典に「海印三昧」という言葉が出てきます。『禅学大辞典』によれば、

「無礙湛然なる仏の智慧の海に一切真実相が印で押した如く、はっきり映り現れるような、

不動の禅定に入った仏の境地」と説明されています。あるいは、一切のもの、一切の時が、

この三昧に現れ、絶対真実であることを述べているとも説かれています。

 よく瞑想にも、集中の瞑想と気づきの瞑想とがあると言われます。古来は坐禅ことを止觀とも言いました。

止はひとつのことに意識を集中すること、觀は観察することです。私達の行っている坐禅は、

主に集中の瞑想であると言えます。

 呼吸を意識的に細く長く調えて、呼吸を見つめ、丹田の一点に意識を集中し、

公案という問題に全身全霊を集中させます。そして、自我意識が薄らいでゆき、

やがて意識分別も及ばなくなって、無我を実証し、自他一如であり、天地と我と一体の心境を得ることを目標にしています。

その自他一如のところから自然と湧いて出てくるのが慈悲の心であります。そうして慈悲の実践行を目指すのであります。

 それに対して、先日早稲田大学の熊野宏昭先生に気づきの瞑想を教わりました。マインドフルネスといっても、

人によって実にさまざまなものがあるように思われます。

 熊野先生は、集中の瞑想を、フォーカスト・アテンションと表現され、気づきの瞑想を、オープン・モニタリングと表現されています。

そのオープン・モニタリングを先日教わりました。

 熊野先生に指導によれば、はじめはしばらく集中の瞑想をします。呼吸に集中するのです。

そこまでは、私達の坐禅と変わりません。

 そこから更に、呼吸を一切意識して調節しようとしないようにします。

ただ自然に行われる呼吸に気付くようにします。

 それから、更に全身を気づきながら、呼吸を観察します。体全体に息が入って、

体全体から息がでてゆくように意識します。

 更に自分の体の外に注意を向けてゆきます。聞こえる音、風のながれなど、

注意を無数に広げてゆくのです。そうして注意を無数に分割してゆくと、

自己というものが段々と小さくなってゆきます。あたかも高い処から自分を眺めているような感じです。

 そうすると外の世界と自分とが一体になっていると感じ取れるというのであります。

自他の分離がなくなり、自分とまわりとのつながり合いがよく見えてきて、自然と慈悲の心が湧いてくるという方法なのであります。
 
 私たちが行ってきた禅定が、外の世界を一切遮断して、自己を無くする修行をするのに対して、まったく逆なのです。

そんなまわりに意識を向けながら、自己が無くなるのであろうかと、私は不審に思っていました。
 

しかし、実際に自分でやってみると、なるほどその通りに実証できたのです。

 意識は透明に澄み切っていながら、そこに一切の現象がありのままにくっきりと

現れているのです。ふと、経典にある「海印三昧」とはこのことであろうかと思ったのでした。
 
 特に集中の瞑想では眠気が起きやすく、その眠気と戦って対治する必要があります。

そこで気力を振り絞るのですが、気づきの瞑想ですと、眠気がまず起きないし、

戦っている様子さえも静かに高いところから眺めている感じなのであります。

 集中の瞑想では、すべて自分の意識の力で行いますので、自分の思うとおりにいかないと心地よくなく、

また自分の禅定を妨げるものには敵愾心が出てきたりしてしまいます。

 それに対して、気づきの瞑想では、一切の計らいをやめてただ見つめる、すべての受け入れて見ていますので、

なにがあろうと穏やかなのです。

 熊野先生に教わった瞑想を自分も実践してみて、なるほと深いものがあると改めて思った次第です。

 私たちがよく読む『禅関策進』という書物に、「舍利弗、二十年の中、常に勤めて毘婆舍那を修得して、

行住坐臥、正念観察して曽て動乱することなし」という言葉があります。毘婆舍那とは、ビパッサナであり、

気づきの瞑想のことです。古来は、気づきの瞑想も行っていたのが、いつのまにか、

集中の瞑想だけに片寄ってしまったのが現状ではないのかとも思います。

 マインドフルネスというと、はやりもののように思われて、禅僧の中には嫌う人が多いようですが、

いろいろ実践してみるとおろそかにできないものがあります。むしろ学ぶものが多いと感じるのであります。

新しい世界が開かれ、一層深まってゆくことを感じるのであります。

(平成30年11月 横田南嶺老師 月並大攝心 『武渓集提唱』より)

「海印三昧」

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