「法は滅びない」
臨済禅師がお亡くなりになるにあたって、弟子達に言われました。私が亡くなった後、
決して私の伝えた仏法を滅ぼしてはならないぞと。するとお弟子の三聖が進み出て、
どうして老師の仏法を滅ぼしたりすることがありましょうかと申しあげた。
臨済禅師は、三聖に向かって、では、私の滅後に臨済の仏法とはどのようなものかと人に問われたら、
どう答えるつもりなのかと問いました。そこで、三聖は、一喝しました。 臨済禅師の仏法とは、
この通りでありますと言わんばかりに一喝されたのです。
それをご覧になって臨済禅師は満足なさるかと思いきや、
ああ、私の仏法はこの愚かな者によって滅びてしまうであろうと、言ってお亡くなりになったのでした。
愚か者は原文には、「瞎驢辺(かつろへん)」とありまして、目の見えない驢馬の事であります。
古来、臨済禅師のこの最後の言葉が問題とされてきました。
臨済禅師は、自分の仏法はこれで滅んでしまうと失意の内に亡くなったのだという説と、
いや、これは表面上は三聖をけなしていながら、内心は三聖を大いに認めて安心して
お亡くなりになったのだという説もあります。
しかし、肝心なことは、真理に滅するだの、不滅だのという問題は起こらないということです。
古い『金剛経』という経典にも、お釈迦様が悟りを得たのも、少しばかりも法として何も得るものが無いからこそ、
悟りを得たと言われると説かれています。
これを得たとか、これを伝えたなどというものがあっては真の悟りは言えません。
かの六祖大師も、我仏法を得せずと言われています。雪峰禅師は徳山禅師の法を伝えた方ですが、
徳山禅師のもとで何を得たのですかと問われて、私はただ空手で行って空手で帰ってきたまでだと答えています。
得たとか、分かったとかいうものは、いつか失うことにもなります。得たものも何も無い、
伝えるものも何も無い、そこにこそ、真理は生きています。法は滅びないし、滅びようもないのであります。
ただその真理に気づくか気づかないでいるかの違いであります。
(平成30年11月22日 横田南嶺老師 入制大攝心 『武渓集提唱』より)