2018年7月5日

7月7、8日どなたでも参加できる円覚寺の坐禅会

 
 最近、境内に新参者の猫が出没するようになりました。

 さて、今週末(7月7、8日)の円覚寺でどなたでもご自由に参加ができる行事の紹介です。

7月7日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 @居士林

 初心者を対象とした坐禅会です。初めに、呼吸や体に意識を向けるなど

準備体操にあたる瞑想をして、心を落ち着けます。それから、体の動きを止めて

静かに15分間くらいの坐禅をします。最後に5分で質疑応答という流れとなっています。

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

(経験者の部では、足の組み方などの説明は、ございません。初めて坐禅をされる方は

なるべく、初心者の部に参加して初歩的なことを体験してくださいますように。)

<土曜坐禅会が行われる居士林堂内>

7月8日(日)は、 

●9:00~11:00 日曜説教坐禅会(横田南嶺老師による法話と坐禅) @大方丈

毎回500人近い、老若男女が集うお説教と坐禅会です。初めての方も多く参加されています。

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ー日曜説教坐禅会が行われる大方丈ー

 皆様のご来山を心よりお待ちしております。

2018年7月5日

僧は、山中がよいー政黄牛のことー


 惟正(いせい)禅師(986~1049)という方は、いつも黄色い牛に騎っていたので、

「政黄牛」とあだ名されていました。身の回りの物を、牛の角にひかけて、

悠然と暮らしていました。

 ある時、役人に呼ばれて、役所で仏法について語り会っていました。

その役人から、「明日酒宴があるのですが、禅師が戒律を守っているのは重々承知のうえで、

あえてこの私に免じてお願いします。どうか、明日お出ましいただいて役人達に、

仏法の話を聞かせてください」と頼まれました。禅師は、よいだろうと肯いました。

 ところが、明くる日に、禅師は一つの漢詩を届けさせて、会合には出向きませんでした。

 その詩が

昨日、曽て今日を将って期す

門を出て杖に倚って又思惟す。

僧と為っては只まさに巌谷に居すべし。

国師筵中、甚だ宜しからず。

 意味を申しますと、「昨日は、今日の会に出ると約束したけれども、

あれから門を出て、杖に寄りかかりながら、考え直した。僧となったからには、

やはり山中の居るのよいと。国の名士達の集まりなどに出かけるのは、

やはりふさわしくない」という処です。

 この偈を、円覚寺の中興大用国師誠拙禅師は、よく墨跡に書かれています。

誠拙禅師は、松平不昧公をはじめ、当時の錚々たる知識人や文化人と交流がありますが、

この偈をよく書かれていることを見ると、心中では、僧はやはり山中にいるべきで、

世の人々の交わりなどは、ふさわしくないと思っていたのかもしれません。

自戒の気持ちで、この偈を書かれていたのだろうかとも思うのであります。

誠拙禅師の慚愧の心を思います。

(平成30年 横田南嶺老師 『武渓集提唱』より)

(後記)

 今日から、11日まで円覚寺僧堂では、制末大攝心(1週間の坐禅集中修行期間)となります。

横田南嶺老師をはじめ、雲水(修行僧)や居士・禅子(在家修行者)が禅堂に籠り

坐禅修行に精進しています。

2018年7月1日

文月・7月の詩


 横田南嶺老師揮毫、坂村真民さんの詩です。

円覚寺山内・黄梅院の山門下にある掲示板にて、実物はご覧になれます。

All life on Earth lives and lets live,

surrounded with a deep affection

bestowed by something invisibly great.

It is the joining of your hands

in appreciation of knowing this miraculous benevolence

that will, if only just a little, reduce the misery and cruelty

born of reciprocal hatred and killing.

― English translation: Sakai Takahiko

― English consultation: Paul Dargan

2018年6月29日

6月30、7月1日どなたでも参加できる円覚寺の坐禅会

さて、今週末(6月30、7月1日)の円覚寺でどなたでもご自由に参加ができる行事の紹介です。

6月30日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 @居士林

 初心者を対象とした坐禅会です。初めに、呼吸や体に意識を向けるなど

準備体操にあたる瞑想をして、心を落ち着けます。それから、体の動きを止めて

静かに15分間くらいの坐禅をします。最後に5分で質疑応答という流れとなっています。

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

(経験者の部では、足の組み方などの説明は、ございません。初めて坐禅をされる方は

なるべく、初心者の部に参加して初歩的なことを体験してくださいますように。)

<土曜坐禅会が行われる居士林堂内>

 7月1日(日)は、

●8:05~9:30 日曜坐禅会 @宗務本所・信徒会館2階

8:05~8:20 坐禅

8:30~9:00 坐禅 

9:10~9:20 読経

という内容です。初心者の方には、8:10~20の間で、足の組み方などを説明しますので、

 必ず、時間までにお越しください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。

2018年6月25日

命がけの問答


 唐代の禅僧に船子(せんす)和尚という方がいます。この僧は、薬山のもとで修行を終えて後、

船の上で暮らしていました。修行仲間だった道友に、もしも「これは」と思う禅僧がいたら、

私の処へ寄こして欲しいと頼んで、自身は船の上で思いのままに暮らしていました。

 或る日のこと、とうとう道友に紹介された僧がやってきました。

この僧と船子和尚は、船の上で問答しました。

 激しい問答のうちに、僧は船から水中に落とされてしまいました。何とか船に上がろうとする僧に

「さあ言え、言え」と迫ります。何か答えようとすると、船を漕ぐ櫂で僧を打ちすえました。

そこで僧はハッと悟るところがあったのです。船子和尚も、自分が薬山のもとで得たものを、

あなたも体得できたとその悟境を認めました。

 僧が、船子和尚のもとをお暇しようとしました。船から降りて、岸に上って、何度も何度も

お辞儀をして別れを惜しんで去ってゆきます。すると船子和尚が、「オイ、和尚よ」と呼びました。

僧が振り返ると、船子和尚は櫂を立てて合図しながら、船をくつがえして入水して亡くなりました。

 自分の教えを受け継ぐ者が出来たら、もう用はないというのでしょうか。

 唐代の禅僧の問答の中でも、実に命がけの問答であります。

 詩人の坂村真民先生は「命がけ」という詩を残されています。

命がけということばは

めったに使っても言っても

いけないけれど

究極は命がけでやったものだけが

残ってゆくだろう

 疑えば花ひらかず

 信心清浄なれば

 花ひらいて

 仏を見たてまつる

この深海の真珠のような

ことばを探すため

わたしは命を懸けたといっても

過言ではない

人間一生のうち

一度でもいい

命を懸けてやる体験を持とう

(『はなをさかせよ よいみをむすべ 坂村真民詩集百選』より)
 
 船子和尚のような命がけの問答を見ると、私達の修行などは、畳の上の水練に過ぎないかもしれません。

そうかといって、とてもそんな命がけの修行ができるというものでもありません。

 せめて、祖師方の命がけの修行によって、今日に禅が伝わっているのだという事実を

忘れてはならないと思います。

2018年6月25日

老師 コーネル大学生との問答⑤


 横田南嶺老師とコーネル大学生との問答の第5弾です。

学生: 授業の中で禅病のことを勉強しましたが、禅僧は、自分で自分の心や体の管理を

    やっていると聞いたのですが、セルフケア(自己管理)そのものは、どうやって

    なさっていますか?皆さん方僧侶は、我々よりもシンプルな生活をやっていると

    思いますが、そういったシンプルな生活の中でセルフケアに時間を費やすことは

    できるのでしょうか?また、老師ご自身は、セルフケアをなさいますか?

老師: なるほどね。確かにこの修行の暮らしでは、セルフケアの時間はあまりないと

    思います。しかし、修行というのは、いろいろな段階があり、例えば、若い

    修行僧が3~5年の短期間で集中して修行をしている時は、あまり、そういう

    時間はない。それは、その期間は、自我意識、自己を否定する時間だからです。

    しかし、そればかりでは、生きていけません。白隠禅師が良い例で、

    白隠さんは、最初の数年間の厳しい修行で身体と心を壊してしまった。

    昔は、白隠さんのように病気になってから、セルフケアをしたんです。

    今では、そこで、病気になる前に自己管理を学んだ方が良いと最近、

    私は思うようになりました。

    そこで、ヨガや気功やマインドフルネスなど様々なものを併用して

    学んで病気になる前に用心するようにしています。

    私自身の自己管理は、あまりできていないと思います。それでも、

    やはり、身体を大切にしなければならないと最近、実感しています。

    そろそろ、老化を感じる年だからです。そこで、朽ちていく、壊れていく

    身体でいかにして元気に坐禅を続けるかを研究しています。

    その一つは、力を省くこと。

    今までは、力を使って使ってやってきたけれど、それは、段々、疲れてしまいます。

    最低限の力で、坐禅や修行が出来るように研究をしている。その為に様々な

    身体技法、身体の使い方を勉強しています。

(平成30年6月17日 コーネル大学生との質疑応答より)

2018年6月24日

老師 コーネル大学生との問答④


 横田南嶺老師とコーネル大学生との問答の第4弾です。

学生: 私は、スポーツ心理学を専攻していて、団体の団結に関して興味がありますが

    一つの目的に向けて、人と人との間の絆は、どうやったら、強めることができますか?

老師: う~ん・・・。なんというのかな。私は、団体からはみ出た人間だからね。やはり、

    絆が嫌いだしね。勝手に生きているんだわ。(一同笑い)

    団体の団結ということから言えば、私なんかは、迷惑な人間だと思います。(一同笑い)

    みんなが団結をして一つの方向に行こうとすると、私は必ず逆の方向に

    行こうとする。・・・すみません。(一同爆笑)

    そういう人間もこの団体の中に置いてくださっている。ですから、この団体の

    キャパシティーに感謝している。(一同笑い)

    そうなのよ。一つの所に行こうというのは、嫌いなのですわ。うん。あんなところ

    行ったら、落とし穴があるんじゃないかとパッとして見えるんだわ。(一同笑い)

  (平成30年6月17日 コーネル大学生との質疑応答より)

2018年6月24日

蚊の大軍に襲われて

 
釈宗演老師

釈宗演老師は、セイロンに行って仏教の原典を学び、その帰りにタイ国に寄って

戒律を受けようとされました。残念ながら、タイ国での願いはかなえられなかったのですが、

そのタイに行く船で、自分の前半生の修行の力を試す好機に会いました。

 それは、すでに旅費も尽きかけて、船に乗っても甲板の上で過ごすという有様でした。

船は、バンコクのメナム河の河口で低潮の為にとどまりました。

 夕暮れから、気圧が低く、雨が降り出しそうで降らず、蒸し熱くてどうしようもない状態でした。

そこに、無数の蚊の大軍が襲ってきました。船室に入れない宗演老師は、

甲板の上で、逃れようもありません。手で追えば、足に蚊が群がり、足を払えば、

手に群がるといった有様でした。どうにもならなくなって、宗演老師は、決意しました。

 よし、この蚊の群れに、自分の血を施してあげようと。今まで、自分は幼少から出家して

何の孝行も出来なかった。多少修行したつもりでいたが、蚊の大軍に襲われて

心を乱してしまうとは、いったいどういうことか。こんなことなら、

いっそ、蚊のお腹がいっぱいになるまで血を吸わせて施してあげようと思ったのでした。

 そのように意を決して、甲板の上で素っ裸になって、坐禅をしました。

もちろん蚊の大軍は容赦なく襲ってきます。坐っていると、

段々蚊と自分と相和してゆきました。暑さも渇きも感じなくなりました。

なんとも言えぬ心地好い心境になってゆきました。

 そんな折に、雷が一声鳴り響き、にわか雨が勢いよく降ってきました。

頭から滝のように水が流れました。

 ふと坐禅から覚めて、当たりを見ると、真っ赤なグミの実がまわりに

たくさん落ちているではありませんか。何かと思って、よく見ると、

それはグミではなく、血をお腹いっぱいに吸って死んだ蚊の群れだったのです。

 このように、甲板の上で、蒸し熱い中、蚊の大軍に襲われて逃げ場もない中で、

「よし、蚊に血を施してあげよう」と意を決して坐禅して、

深い心境に達することができたのでした。

 逆境から逃げずに、むしろその中に入り込んでゆく生き方であります。

2018年6月23日

はじめは仁王(におう)のように


 蜆子(けんす)和尚もそうですが、唐代の禅僧の様子を学んでいると、

実に大らかで自由で、ただお腹が減ったらご飯を食べ、くたびれたら眠るという、

ありのままの暮らしをしていることが分かります。

 しかし、我々がそれをそのままマネをすればいいかというと、

そうはいきません。

 臨済禅師なども、仏法は何も特別工夫することではない、

服を着たりご飯を食べたり、大小便を出すだけだと言っていますが、

ご自身体究練磨して、ようやく気がついたのだとも仰っています。

 江戸期の禅僧鈴木正三は、そのへんを仏像に譬えて分かりやすく説いてくれています。

お寺に入ると、門のところには仁王さんがおまつりしています。

或いは十三仏でもはじめは不動明王です。

 修行も、はじめは仁王さんや不動さんのような気迫でのぞまなければならないと説くのです。

そうして、修行していって、最後にご本尊の観音さま、如来さまのようになるのだということです。

 坐禅も、はじめのうちは、仁王さんのような気迫で臨むのです。目をキリッと開いて、

拳を握って歯をくいしばって、自分の欲望や妄想や眠気や弱さに負けてなるものかと、

気迫を持って坐ります。最初から、柔和にはいかないものであります。

 そうして年月を経て修行していくと、段々と角が取れていって観音さまのように、

如来さまのようになってゆくのです。

2018年6月22日

老師 コーネル大学生との問答③

 横田南嶺老師とコーネル大学生との問答の第3弾です。

学生A:何か好きな仏教の本、または、仏教以外の本でも構いませんのでありますか?

老師: 今現在かな?

学生A: 今でも過去でも

老師: う~ん。あり過ぎてね。(しばらく時間があって)よく読んでいるのは、

   ダンマパダかな。ダンマパダは、自分の原点のような気がしていますのね。

学生B: アルチュリズムについてですが・・・

老師: アルチュリズム?アル中のことは、よく知っているが・・・(一同笑い)

引率教員: アルチュリズムは、日本語で利他主義のことです。

老師: そうか、利他主義のことか。

学生B: 我々は、名門と呼ばれる大学の学生ですが、それに入るためには、

    たくさんの競争をして入ることができました。ですので、他の人と

    対立をして競争して成功するのがやり方だと過去に教わってきました。

    しかし、そういった競争の環境にいながら、どうやって利他主義を

    達成することができますか?

老師: なるほどね。私は、早いうちから、競争は愚かだと思って放棄して

    やってきました。しかし、皆様方のように、競争を勝ち抜いた人は、

    大きな力だあると思います。

    ですから、私なんかは、何の能力もないわけだけれど、ただ、動物のように

    生きてきたもんです。何も発明しないし、何も作らない、飯を食って寝ている

    だけで・・・(一同笑い)

    あなた方は、競争を勝ち抜いた素晴らしい能力があるのだから、それで

    良いコンピューターでも作ってくれれば、私は、一生懸命、使いますよ。

    競争をしてしまったことは、これは、仕方がないことで、その中から、

    皆様のお役に立つような素晴らしいものを開発してくれればいいかな。

    ちなみに、あなたは、何を研究しているの?

学生B: 動物科学です。

老師: 動物を作るわけにはいかないしな・・・(一同笑い)動物ですか・・・

   動物園を作ったりするやつですか、それは?(一同笑い)

学生B: 動物の医者や動物を守る組織を作るプログラムです。

老師: 動物の為に力を発揮して頑張ってやってください。

(平成30年6月17日 コーネル大学生との質疑応答より)

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