2018年12月5日

「苦行の果てに」

 
 臘八の修行は、お釈迦様の難行苦行にならう修行でもありますので、いつもお釈迦様の苦行の話もいたします。

 お釈迦様は、王子という位にあって、きわめて裕福に暮らされました。

しかし、それでは、満足が出来ずに、出家して苦行の道を選ばれたのでした。

 苦行では、息を止める修行や断食をなされました。

一日に一食、二日に一食、七日に一食、さらには半月も断食されたりしました。

わずかの豆や小豆の類いを取るだけで、みるみるお痩せになりました。

 手脚は、枯れた葦のようであり、尻はラクダの背のように、背骨は編んだ縄のようにあらわれ、

肋骨は腐った古屋の垂木のように突き出て、頭の皮は熟しきらない瓢箪が陽(ひ)にさらされたようにしわんで来ました。

 それでもただ、瞳だけは落ちくぼんで深い井戸に宿った星のように輝いていたといいます。

 そんなお姿を写したのが、パキスタンのラホール美術館にある釈迦苦行像であります。 

その頃のお釈迦様のご様子を、経典ではこのように表現しています。

 腹の皮をさすれば背骨をつかみ、背骨をさすれば腹の皮がつかめた。

立とうとすればよろめいて倒れ、根の腐った毛はハラハラと抜けおちた。

 過ぎし世の如何なる出家も行者も、来るべき世の如何なる出家も行者も

これより上の烈しい苦を受けたものはないであろうと思われたほどありました。

 日に焼かれ、寒さに凍え、恐ろしき森に只一人、衣もなく、火もなく、理想のひかりに聖者は坐られたのです。
 
ときには、屍や骨の散り積まれた墓場に夜の宿を取られました。

牧羊者の子供達がお釈迦様を見つけて、唾をはきかけ、泥を投げつけ、また木の枝を取って耳にさしこみました。

しかし、お釈迦様のお心は彼等にたいして少しも怒りを発することはありませんでした。

経典は、更にこう記しています。

 「血は枯れ、あぶら失せ肉落ちて、心いよいよ静まる。正念と智慧と明らかに、禅定いよいよ固し。

われ、かつて、五欲の楽しみの極みを尽くし、今やその欲に望みなし。この清浄の人を見よ」と。

お釈迦様の教えは、こんな苦行の果てに体得されたものです。

 
 八木重吉の詩に、「神の道」というのがあります。

『 自分が

 この着物さえも脱いで

 乞食のようになって

 神の道にしたがわなくてもよいのか

 かんがえの末は必ずここにくる』

というのです。神をお釈迦様に置き換えてみますと、その通りだと思われます。 

 ときには、そんな純粋さばかりでは生きては行けぬと言われるかもしれません。

 たしかに、純粋さだけでは生きてゆけぬでしょう。

しかし純粋さを失えば、また生き残れぬと思うのであります。

 年の一度の臘八を迎えると、お釈迦様を純粋にお慕いする気持ちが湧いてくるのです。

(平成30年12月 横田南嶺老師 臘八大攝心提唱より)

2018年12月4日

「一点に集中」

 達磨大師の言葉と伝わるものに、

「外、諸縁を息(や)め、内心喘ぐこと無く、心、墻壁の如くにして、以て道に入るべし」という語があります。

 坐禅の心得を示されたものです。

先ず第一は外の世界に対して、一切心をはたらかせないようにします。

眼で見えるもの、耳で聞こえるもの、鼻で嗅ぐもの、舌で味わうもの、体に触れて感じるものに、一切心を動かさない。

外から入ってくるもの一切を遮断してしまうのです。

すると、今度は、心の内からさまざまな思いが湧いてでてきます。

むしょうにものが欲しくなったり、腹が立ってきたり、あれこれと心が散乱したり、

または心が沈んで、やる気がなくなり、怠惰になったり、眠気が起こったりします。

その内心に湧いてくるもののすべて断ち切って坐ります。

その要領が、心を切り立った壁のようにしてしまうことです。

何物も寄せ付けぬぞという気迫をもって、一つの事に集中するのです。

そうして、仏道に入ってゆくと説かれます。 

何物を寄せ付けぬようにするには、心を一点に集中するのがうまくゆきます。

それが呼吸を数えることであったり、無の一字に集中するのです。

体の上では、おへその下の丹田に一点に意識を集中させ、心では無の一字に集中させて、

それを一つにしてしまいます。

 すると、体も消えて、ただ呼吸だけが残るような感覚になります。

更にその呼吸も、この広い空間に溶けていって一つになってゆくのです。

これを古人は「空蕩蕩地(くうとうとうち)」といいました。

空っぽでどこまでも広がった世界です。これが道に入ってゆく第一歩であります。

 そのように一点に集中してゆく修行ですが、臘八のように睡眠が足りていないと、

特に途中眠気に襲われます。

集中していく過程と眠りに入る過程とは、あるところまでは同じ道を辿ります。

そこで気をつけていないと、眠りに落ちてしまうのです。

 眠りに落ちないように、集中してゆく為には、やはり目をはっきり開くこと。

何かを見ようとしなくても、はっきり見えているという状態を保つことです。

それから口元を引き締めて、舌をしっかり上あごに付けること、

要は口がたるまないことです。

そして法界定印を結んだ手をしっかり組んでおくことです。

この三つをしっかり意識できていれば眠気は退散してゆきます。

どうしても眠いならば、意識を思い切って眉間に引き上げることです。

丹田に下げるのではなく、一時的に引き上げて覚醒させてみる。

そうして目覚めた状態で一点に集中してゆくのであります。

(平成30年12月4日 横田南嶺老師 臘八大攝心提唱より)

2018年12月3日

「無になる修行」

 
 円覚寺の開山仏光国師は、十七歳で径山の佛鑑禅師から、無字の公案を与えられて参究しました。

はじめは、一年もすれば何とか片づくと思っていたのですが、それが容易に解決できずに、

二十二歳まで足かけ六年にわたって無の一字に取り組まれたのでした。

 私たちの坐禅の修行も、この無になるという一事に尽きます。

しかし、この無になるという単純なことが、実際にやってみると如何に困難なことであるか身にしみるのであります。

 無になるとは、捨て去る修行であります。

何かを学んで覚えて得るのではなくて、ひたすら捨ててゆく修行であります。 

 それは、お釈迦様の御修行にならうからであります。

お釈迦様は、王子の位も捨てられ、財産も捨てられ、名誉も捨てられ、妻子も捨てられました。

更に難行苦行してすべてを捨ててゆかれました。もうこれを取り去ったら人間とは言われないであろうという

最後の最後まで捨て切られました。

もうこれ以上捨てられないという、最後に残るもの、それは何か。

最後に明けの明星をご覧になって気がつかれたのでした。
 
何かを得る修行ではなく、捨て去る、無になる、ただそれを行じる修行なのであります。

無になってこそ、見えてくる世界なのです。

(平成30年12月3日 横田南嶺老師 臘八大攝心提唱より)

2018年12月2日

「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」

 論語の中に「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉があります。

この言葉もまた、臘八のたび毎に紹介しているものです。

 金谷治先生の訳によると「朝(正しい真実の)道を聞けたら、その晩に死んでもよろしい」という意味です。

 森信三先生の『一日一語』の十二月二十二日の章に、この言葉を引用して、

「生きた真理というものは、真に己が全生命を賭けるのでなければ、根本的に把握できないという無限の厳しさの前に佇立する想いである。」

と記されています。

 たしかに、その道に命を賭けるくらいの意気込みがなければ、何に於いても成就することは困難でしょう。

まして況んや、仏道修行、禅の修行においてはいうまでもありません。

 アントニー・デ・メロという神父さんが、

「何もかもなげうって 死さえもいとわないほど 価値のある 宝が見つかったときにこそ 

人はほんとうのいみで 生きる」という言葉を残されています。

何の宗教であろうと道を求める心は同じであると思います。

 この朝に「道を聞かば・・・」の一語は今北洪川老師の『禅海一瀾』にも引用されています。

洪川老師も、朝聞いたなら、その夕べに死んでもいいというほどの道とは何か、

問い詰めてゆけと仰せになっています。

 なかなか、命がけなどということは、めったに出来ることでもありませんが、

こうして臘八の摂心を行いながら、眠たい、足が痛い、疲れたなどとつまらぬ思いにとらわれるくらいならば、

この命を何にかけるかと考えてみると、更なる力が湧いてくるものです。

(平成30年12月2日 横田南嶺老師 臘八大攝心提唱より)

2018年12月1日

これより臘八(ろうはつ)


今日から8日の暁天まで、円覚寺僧堂では、臘八大攝心となります。

臘八大攝心は、一年で一番厳しい坐禅修行期間です。

 雲水(修行僧)は、この期間中は、横になって休むことが許されず、

ひたすら、坐禅修行に打ち込みます。

 以下は、横田南嶺老師による臘八の提唱です。

 「この一日より、八日の暁天まで、臘八の大摂心となります。

改めて言うまでもなく、臘八は、お釈迦様が十二月八日の明けの明星をご覧になって悟りを開かれたことにあやかって修行するのであります。

 お釈迦様は、王子の位も捨て、家族も捨て、財産もすべてを捨てきって、難行苦行を六年なされました。

そして、十二月の八日に悟りを開かれたのです。

 そこで、我々はとてもお釈迦様の苦行には及ぶべくもありませんが。毎年十二月の一日から八日まで一週間を一日と見なして、坐禅に打ち込みます。

八日の暁天までが一日ですので、この間夜も布団を敷いて寝ることはしません。坐ったままで過ごします。

 いくら若い者でも、一週間体を横にしないのは、苦痛でありましょう。

しかし、それを乗り越えて、坐禅三昧の体験をしなければ、禅僧とは言い難いのであります。

 この臘八のたび毎に、森信三先生の言葉を紹介しています。

 『森信三先生一日一語』の、十一月二十一日の項にある言葉です。

 人間の真価を計る二つのめやすー。

 一つは、その人の全智全能が一瞬に、かつ一点に、どれほどまで集中できるかということ。

 もう一つは、睡眠を切りちぢめても精神力によって、どこまでそれを乗り越えられるかということ。

 いつも、この言葉を拝見する度に、森信三先生の深い洞察を思います。まさにその通りなのです。

そして、まさにこの臘八の修行こそが、われわれ禅僧の真価を計る時なのであります。」

2018年12月1日

臘月・12月の詩


横田南嶺老師揮毫、坂村真民さんの詩です。

円覚寺山内・黄梅院の山門下にある掲示板にて、実物はご覧になれます。

Read good books.

Cultivate yourself by putting your nose in good works.

Burn a brilliant fire in your heart

and call out at the end of your life—

in your final breath—

that your existence was one of great dignity.

―The Complete Poetic Works of Shinmin Sakamura (page 21, Vol.1)

― English translation: Sakai Takahiko

― English consultation: Paul Dargan


円覚寺公式カレンダー。

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