2018年5月31日

6月2、3日どなたでも参加できる円覚寺の坐禅会


@妙香池

さて、今週末(6月2、3日)の円覚寺でどなたでもご自由に参加ができる行事の紹介です。

6月2日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 @居士林

 初心者を対象とした坐禅会です。初めに、呼吸や体に意識を向けるなど

準備体操にあたる瞑想をして、心を落ち着けます。それから、体の動きを止めて

静かに15分間くらいの坐禅をします。最後に5分で質疑応答という流れとなっています。

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

(経験者の部では、足の組み方などの説明は、ございません。初めて坐禅をされる方は

なるべく、初心者の部に参加して初歩的なことを体験してくださいますように。)

<土曜坐禅会が行われる居士林堂内>

6月3日(日)の日曜坐禅会(@大方丈)は、夏期講座開催中に為、休会です。

2018年5月28日

管長 本日の読売新聞朝刊の対談記事に

 本日の読売新聞朝刊27面に円覚寺派管長・横田南嶺老師と俳人・長谷川櫂さんとの

対談記事が一面で掲載されています。

 長谷川櫂さんは、読売新聞朝刊2面にコラム「四季」を連載しています。

その連載が5000回を迎えたということで、記念対談をすることになり、

長谷川櫂さんがぜひ、横田南嶺老師と対談をしたいとの意向で、この対談が

実現しました。

「論理より感覚」「生と死と悟り」「言葉以前の世界}など

お二人によって深いテーマが語られています。

皆様、ぜひ、ご覧になってください。

2018年5月26日

迎合することなく背くことなく

 ある中学校の話です。その中学は、県内でも有数の問題のある中学校でした。

そこへある校長先生が赴任をして、手も付けようない中学をどうしようかと

思案をしていました。

 悩んでいたある日のこと、夜、校長先生が学校から帰ろうとして

近くのイチゴ畑を通りかかると、二人の少年がイチゴを盗んでいた。

 それを見て校長先生は、つかつかと近づいて行って掛けた言葉が

「おい!俺も仲間に入れろ」でした。なかなか、言えない言葉です。

 そして、いっしょになってイチゴを盗み始めた。いっしょに盗みながら

「いいか、イチゴを取る時は、決して蔓を傷つけないようにしてイチゴだけを

取るんだ」と言いながら、イチゴ泥棒の講釈をしながら、イチゴを取っている。

 そこで、畑の主に見つかって「よし!逃げろ!」と3人がてんでばらばらになり、

どうにか逃げおおせた。

 あくる日、その校長先生は、イチゴ畑の主のところにいって、平身低頭お詫びをして

「イチゴを盗んだのは、この私です。」と盗んだ分のイチゴの賠償をして頭を下げた。

その主の方は、「いや、一人ではなかったはずだ、あと二人いたはずだ、その二人は

誰かと追及しました。

 校長先生は、決して誰あるとは言わなかった。その後、学校に於いて、この話が知られ

るようになっても、校長先生は、最後まで誰であったかとは言わなかった。

 しかし、ある教室を受け持っていた担任の先生には誰であるかわかった。

なぜ、わかったかというと、今まで一番暴れて、手のつかられなかった二人の生徒が

その日を境に変わっていって、段々と明るくなり、問題を起こさないようになった。

 それで、校長先生といっしょに盗んでいたのは、この二人であるという話です。

「十字街頭にあって、向背なし」という言葉があります。世間の巷にありながら、

迎合することもなく背くこともないという意味の言葉です。

 山本玄峰老師は、泥棒と巡査の話をしましたが、巡査が泥棒を追いかけて

同じように走っていても、中身は全く違う。確かに同じ方向に同じように

走っているが、中身に抱いているものは全く違うのです。

 この校長先生もいっしょにイチゴを盗みながら中身が全く違う。

校長先生の中身は何であるか?大慈悲心一つです。

 慈悲心を持っているからこそ、「十字街頭にあって、向背なし」で

迎合することもなく、背くこともない働きができるのであります。

{平成30年5月26日 横田南嶺老師 『武渓集提唱』より」

2018年5月25日

自信(自らを信じる)


舞子アジサイ@黄梅院

 自信という言葉は、臨済録の中では、何度も出てくる言葉です。

自らを信じるのであります。仏は自分の外にあるのではない、外に

求める必要はない。

 臨済禅師の言葉では、今こうして話を聴いているもの、

(今、こうして、このブログを読んでいるもの)これこそが仏である信じる、

納得をすることです。臨済禅師は、これを繰り返し説くわけです。

 語録の中では、「自己の外(のもの)に向かって信じよ」という用例は

一例もない。徹頭徹尾、「自らを信じる」であります。

 信仰と信心という言葉がありますが、信仰は高く遠いところにあるのものを

仰ぐという意味です。我々、仏教の信というのは、信心の方で自らの心を信じるのです。

 江戸時代の禅僧・東嶺禅師は、仏様の心と我々の心と本来同じく備わっていることを

深く信じることだと説かれています。また、機根が優れたものも、劣ったものも、

機鋒が鋭いものも、鈍いものも、差があるにせよ、修行をしていくならば、

達成することができる、納得することができると深く信じることだと

的確に仰せになっています。

{平成30年5月25日 横田南嶺老師 『武渓集提唱』より}

2018年5月25日

「釈宗演 zen 」漫画 近日発刊

 今年、100年遠諱を迎えている釈宗演禅師(明治時代の円覚寺の老師)の前半生を描いた漫画が

5月31日に発刊されます。

著作者は、「スラムダンク」「バカボンド」で有名な井上雄彦のお弟子さんである

高島正嗣さんです。高島さんは、この漫画を画く為、ご自身も何度も坐禅をされ、

また、宗演禅師がご修行をされた京都・妙心寺や老師が海外渡航されたスリランカまで

足を運び綿密に取材をされました。

 監修は、横田南嶺老師がされていて、原稿を見た老師の口からは、「漫画というものを

見直した」と何度もおっしゃられていました。

 明治の価値観が転換する激動の時代に釈宗演禅師がどのような生き方をされたのか。

現代の閉塞感が覆い、新しい価値観が待ち望まれる状況の中で、我々がどう生きる

べきかのヒント与えてくれる素晴らしい一冊です。

 皆様、ぜひ、ご覧下さい。

2018年5月24日

慢心とその対処法


木漏れ日@黄梅院

 慢心というものは、たいへん恐ろしいものです。仏教では四煩悩という

根本煩悩の一つになっています。

 我慢という言葉がありますが、一般的には、「我慢をしなければならない」という

ような、辛抱をするという意味で使われていますが、そういう意味での我慢は

悪い意味ではありません。

 「今が我慢のしどころ」というもは、悪い意味ではないのですが、

もともとの意味は、我というものに対する慢心です。慢心、おごり、高ぶりです。

これは、人間は絶えず付きまとう。

 特に悲しいかな、一生懸命に修行をすればするほど、これが付きまとってしまう。

そして、この慢心が修行の大きな妨げとなる。

 慢心というのは、恐ろしいし、難しい。人間は、どうしても、「自分はまんざらではない」

「自分はそこそこである」と思ってしまう。

 それでは、どうしたら、この慢心を克服していくことができるであろうか?

唯一、慢心を克服することが出来るのは、冷静に自己を観察して、今、自分に

慢心があると静かに認めることより他にない。

 そういう自分自身を冷静に観察する眼(まなこ)と修行も必要です。

 従来の馬祖禅では、作用即性(さゆうそくしょう)一辺倒で、一枚になりつくすと

何でも一枚ですまされてしまい、周りが見えなくなることがあり、

慢心にも気づかなくなってしまう傾向があります。

 ですから、自己を観察する眼というものを保っていかなければなりません。

これが修行の大事なところです。

{平成30年5月24日 横田南嶺老師 『武渓集提唱』より}

2018年5月24日

5月26、27日どなたでも参加できる円覚寺の坐禅会


青空と雲とヤマボウシ@黄梅院

さて、今週末(5月26、27日)の円覚寺でどなたでもご自由に参加ができる行事の紹介です。

5月26日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 @居士林

 初心者を対象とした坐禅会です。初めに、呼吸や体に意識を向けるなど

準備体操にあたる瞑想をして、心を落ち着けます。それから、体の動きを止めて

静かに15分間くらいの坐禅をします。最後に5分で質疑応答という流れとなっています。

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

(経験者の部では、足の組み方などの説明は、ございません。初めて坐禅をされる方は

なるべく、初心者の部に参加して初歩的なことを体験してくださいますように。)

<土曜坐禅会が行われる居士林堂内>

5月27日(日)は、 

●9:00~11:00 日曜説教坐禅会(円覚寺派布教師和尚による法話と坐禅) @大方丈

 老若男女が集うお説教と坐禅会です。初めての方も多く参加されています。

blog-DSC01316
ー日曜説教坐禅会が行われる大方丈ー

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。

2018年5月24日

五つの伝え方


ツユクサ@黄梅院

 印度から達磨様によって伝えられた禅の教えは、中国において五つに分かれてゆきました。

今の日本にはそのうち、臨済宗と曹洞宗の二つが伝わっています。

 そのほかに、雲門宗、潙仰宗(いきょうしゅう)、法眼宗というのがあります。

根本はみな同じなのですが、人を導いてゆくそのあり方に違いがあります。

 臨済は、一喝のもとにすべての迷いを消し去るはただきがあります。

雲門宗は、言葉の見事さが特徴です。「日々是れ好日」などというように、

簡潔な品のある言葉で伝えました。曹洞宗は、長い丁寧な手紙を書いても、

相手の家には届かないようなものだと譬えられますが、

論理的な丁寧な教えで示そうとしました。

 潙仰宗というのは、潙山と仰山の師弟二人の問答、かけ合いによって教えを伝えました。

法眼宗は、きんちゃく切りのようなはたらきがあるといわれます。

何気ない会話をしているうちにも相手のふところにあるものを盗むのです。

禅で盗むというのは、悪い意味ではありません。

相手の迷い、悩み、苦しみを奪い取るはたらきをいいます。

 この五つの教えを単に昔の話で終わらせるのではなく、

私たちが今禅を伝えるときにも活かすことができます。

 禅を伝えるとは、お互いの心が仏心仏性であると気づかさせることにほかなりません。

外に真理を求めるのではなく、お互いの心こそが仏であったと気づくのです。

 その為に、時には臨済の如く、あれこれ言わずに、一喝のもとに目覚めさせる場合も必要でしょう。

 雲門のように、きれいな言葉で伝える場合もあります。

曹洞のように、時には丁寧な長い手紙を書いて伝えることも必要です。

潙仰宗のように、父と子、師と弟子の会話で伝える場合もありましょう。

法眼宗のように、何気ない会話のうちに、相手にも気がつかれないように、

悩みや苦しみを無くしてあげることもございます。

 禅を伝える時に、その相手はどういう人なのか、

今どのような伝え方が適切なのか、よく判断して、

五つの伝え方のどれがふさわしいかとよく見極めて

用いてゆくことが大事でしょう。

{平成30年5月23日 横田南嶺老師 『武渓集提唱』より}

2018年5月24日

管長・新刊本 中外日報で紹介

 円覚寺派管長・横田南嶺老師の新刊本「仏心のひとしずく」が中外日報で紹介を

されました。この本の魅力を存分に紹介しています。皆様、ご覧下さい。

2018年5月23日

伝統、伝統と言いながら

  我々が坐禅をするのに、今では、臨済宗というと対面に坐り、曹洞宗は

壁に向かって坐るのだいうのが常識となっています。さらに、臨済宗が

向かい合わせで坐禅をすることが臨済宗の特徴であるのごとき言い方まで 

されていますが、どうも、近年の研究によりますとそのようなことはない

という説が出ています。

 我々、臨済宗の五山の道場に於いても、向かい合わせで坐禅をしているのでは

なく、壁に向かって坐っていたようです。これに関して、江戸時代の学僧・

無箸道忠なども、江戸時代において、「最近、面壁することをしなくなってきた」

という記述をしています。

 面壁から対面で坐ることに変わったのは、、江戸時代に黄檗宗が日本に伝わってきた影響と

言われています。黄檗宗というのも、同じ臨済の教えなのですが、お経の読み方、様々な

作法、修行をする様子まで、ずいぶんと変わっていたので、黄檗宗と名付けるように

なりました。

 今日、坐禅中に警策で肩をパンパンとたたいているのが、まるで臨済宗の特徴のように

思われていますが、これも、どうも、江戸時代あたりに黄檗宗の流れによって

伝えられたのではなかろうか、また、もともと、なかったのでないかと

まで言われています。

 我々の修行においても、よく、そのような歴史を検証しないと、

伝統、伝統と言いながら、本質から外れたことを伝えて、それを

有り難がっていないかを常に検証をしていかなくてはなりまでん。

 根本は何であるのか、何を目指して修行をしているのか、ということを

絶えず振り返っていかなくてはいけない。

何をなすべきかということを見失ってしまい、警策をバンバン振り回している

ことが臨済の禅であると勘違いをしてしまうと本質を見失う。

 本質は何であるかを絶えず学んでいくために経典、論書、語録を学んで

軌道修正をしていかなくてはなりません。

(平成30年5月22日 横田南嶺老師『武渓集提唱』)

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