2016年12月6日

今日の円覚寺・紅葉状況④

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<法堂跡横参道から居士林方面をのぞむ>

紅葉もそろそろ最期の輝きといった時期になりました。
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<大方丈裏庭から僧堂方面をのぞむ>
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<白鹿洞脇参道から>

2016年12月6日

「新説・臨済の四料揀」 一日一語 127

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<法堂跡>

 横田南嶺老師が先日の遠諱法要で提唱されたことをまとめてみました。

 「臨済の四料揀」という教えがあります。

四料揀とは、一、奪人不奪境 二、奪境不奪人 三、人境俱奪 四、人境俱不奪です。

 (これを現実の生活に活かせるように解釈しますと)一つ目の「奪人不奪境」とは、

お寺にはいろいろな悩み事を抱えて相談に来る人がいる。いや、相談ではなくとも

いろいろな人がやって来る。そこで、まずは、自分を殺す。自分を奪って相手を

奪わないことです。自分を殺すとは、自分の意見や自分の考えをを全く出さずに

外の景色を見る。「ああ、良い天気ですな」や「この頃、シュウメイギクが咲いて

きましたな」と言ったり、または、相手の置かれている状況をことごとく認めて

あげて、聞いてあげる。

 今日、傾聴という言葉が使われていますが、こちらを殺して相手を活かして

よく理解をしてあげる。これが、「奪人不奪境」です。まず、お茶でも出して

ゆっくりと相手を認めてあげる。いきなり、お説教をしようとするから

問題が起こるのだと思います。

 次に二つ目の「奪境不奪人」です。もちろん聞くこと、傾聴をすることは

大事でありますが、それだけで終わったならば、救いになりません。

一時的に気持ちは、安らぐかもしれませんが、本当の解決にはなりません。

それこそ、今度は、こちらが主体となって、「それは妄想の世界ですよ」や

「あなたの思い違いですよ」「あなたのわがままの為に様々な苦しみを

作り出しているのですよ」など、お釈迦様の説かれた真理である、諸行無常

諸方無我を堂々と説いてあげる。

 三つ目は、「人境俱奪」です。「奪境不奪人」に留まっていては、単なる

お説教に終わってしまいます。そこで「人境俱奪」です。これは、禅たる

ゆえんでありましょう。「では、お互い坐りましょう」「お互いに坐って

我もない人もない、我も世界もないところにいっしょに坐りましょう」の世界です。

 明治の終わりから大正に活躍された岡田虎二郎という正座法を薦めた人が

いらっしゃいますが、この人は、お説教はせずに、心の病にかかっている人が

来るといっしょに坐りました。そうして、坐り抜いて、病を治したということが

伝わっています。禅の布教は、ここにあろうかと思います。我も世界もない

ところに俱(とも)に坐る。そこで初めて、本当の安らぎが出てくるんで

ありましょうし、禅の安心はここにありましょう。

 さらにそこにとどまらずに、四つ目の「人境俱不奪」です。

俱に成りきって坐ったならば、お茶を淹れてあげて、ゆっくりとお互いが

語り合う世界です。「人境俱不奪」の世界は、我も活かし相手も活かす。

「ああ、そうですか」とこちらの思いも聞いていただく、向こうのことも

聞いてあげる。人も境も活かす世界です。

 こうしてみると、為人度生の場においても、四料揀は大きな意味があるのは

ないでしょうか。

 私たちは、臨済宗と称しておりますが、果たして、臨済の修行とは何であるか?

何を修行し何を修めるのであるか?です。

 そして、臨済の教化とは何であるか?こういうことを学んでいく上において

臨済録は、お互い、大いに学んで活かしていけるものであります。

 そうでなければ、臨済宗の看板を掲げている意味がないのではないかと

思います。どうぞ、この大遠諱をきっかけにして、さらに一層、臨済の禅の

奥深いところを学んで一層研鑽していただきたい。

 臨済の修行、日々の修行、禅僧としての修行においても、また、それぞれ、

和尚様方の教化の場においても、臨済の禅を大いに鼓揚していただきたいと

願うところでございます。

(平成28年10月28日 大遠諱 臨済録提唱 26:40)

2016年12月5日

第2回 夜の初心者向け坐禅体験会 参加者募集中

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居士林(円覚寺の在家修行道場)山門
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居士林堂内

 居士林(円覚寺の在家修行道場)では、夜の初心者向け坐禅体験会を新設します。

 最近、世間では、仏教冥想に対する注目の高まりか、居士林で毎週土曜日に開催

されている土曜坐禅会・初心者の部(13:20~14:20)には、毎週100人を

大きく超える方々が参加をしている現状があります。

 そこで、居士林では、夜間にも初心者向けの坐禅体験ができる会を設けようと思いました。

 この坐禅体験会は、2時間というゆったりとしたプログラムで、呼吸禅、立禅、臥禅、

歩行禅、椅子禅、発声禅、坐禅といった内容となっており、事前に予約した少人数の方に、

一人一人と向かいながら、初心者の方が段階的に学べるように心がけて参ります。

 第2回目は、

日時: 1月17日(火) 19:00~21:00

    2回目以降は、月に一度以上の割合で開催する予定です。

    今後のスケジュールについては、当「居士林だより」にてお知らせします。

場所: 居士林(仏殿向かって左に位置する建物です)

定員: 14名

申込み:engakuji.kojirin@gmail.com  宛てに

    ①氏名 ②住所 ③年齢 ④職業 ④坐禅歴 ⑥参加動機を記入して

    お送りください。

参加費: 大人 1000円 学生・子供 500円

  * 夜間開催ですので、会社帰りのサラリーマンや学生・子供の習い事としても参加できます。

  * 定員に制限がありますので、応募人数を超えた場合は、諸条件を考慮して、キャンセル

   させていただく場合もございます。ご了承ください。

  * 冬季期間中(12~3月)は、居士林には、暖房器具がない為、暖房器具のある

    信徒会館2階で行います。暖かい会場にて行いますので、安心してご参加ください。
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<信徒会館2階>

  * 皆様のご参加を心よりお待ちしております。

2016年12月5日

「タワシで磨く」 一日一語 126

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<円覚寺専門修行道場で行われている臘八大攝心(1年で一番厳しい1週間に及ぶ

集中坐禅修行期間)も中日をすぎました。>

 横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 公案(禅の問題)というのは、無に対する何か答えがでるというものではない。

「ム~ム~・・・」と(腹圧をかけながら呼吸に集中することを)朝から晩まで

やることによって自分の心の中を摩擦するのです。自分の心の中をこの無の字で

磨いていく。

 「公案というのは、石鹸みたいなものだ」という言葉がありますが、それで

自分の心を磨くのです。タワシみたいなものだと言っても同じです。

タワシのようなもので「ム~、ム~・・・」と(心の中で)やっていく。

その無がどうこうというのではない。その無の字で、一生懸命、力を入れて

自分の心の中を磨いていく。

 ここで大切なことは、力を入れないと磨いたことにはならないということです。

私たちの心というのは、業障(心の汚れ)が染みついている。それは、スポンジ

みたいなもので軽く(表面を)なぜたって取れやしない。

 何べんやったって、何年やったって、力を抜いてやったら、染みついたもの

こびりついたものは取れないのと同じです。全身の力を持って「ム~、ム~・・・」と

やってこそ、また、爪でかきむしるようにやってこそ、こそぎ落とすことできるのです。

 そして、心の中を摩擦していく、業障を払いのけていく、自分の心の汚れ、染みついたものを

こそぎ落としていくことで2つの心地よい心境を得ることができる。

 その2つというのは、公案に参ずる気力とその公案を捨てる気力です。

公案に参ずる気力というのは、無字の中に自分の持てるものを全部込めていく

大きな気力です。そして、公案を捨てる気力というのは、無字一枚に成りきった

ところで、今度は、その無字を、かためたものを全部丸ごとポイと捨ててしまう

気力です。

 (無字一枚になっても、その心境に執着してはいけない)それは、掃除機で吸い取った

ごみを大事に抱えているような、愚かなことです。それをポンと捨ててみて「あー、なるほど、

この部屋は広かったなあ、きれいなところであるなあ」とわかるのです。

(平成28年12月5日 仏光録提唱 41:50)

2016年12月5日

今日の円覚寺・紅葉状況③

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<法堂跡参道から大方丈方面をのぞむ>

円覚寺境内もだいぶ秋が深まり、晩秋から初冬の変わりの季節に

入っています。
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<白鹿洞脇参道より>
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<白鹿洞より開基廟をのぞむ>
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<如意庵階段より妙香池をのぞむ>

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<山門広場より仏殿方向をのぞむ>

2016年12月4日

「公案という刀」 一日一語 125

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<仏殿前広場>

 横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

公案(禅の問題)について、鈴木大拙先生は、ご自身も深く公案に参ぜられて

それから、先生は学問もありましたから、公案についての意義を上手に表現して

くれています。

 「趙州の無字や庭前の柏樹子(という公案など)は、いかにもくだらないことのようで、

単なるなぞのようにも見える。こんななぞのどこに仏教があるのか、どこに禅が

あるのかと言われよう。しかし、それは表面的な考えである。

 隻手の声(という公案)がわかれば、宇宙存在の大問題が自ら解けるのである。

これらの公案はすべて常識的な考えを打ち払う刀である。」

 大拙先生は、こういう表現をされました。「私たちの常識的な考え方を打ち払う、

断ち切るという刀である。しかし、この振り上げられた刀を外からばかり

見ていては、刀はわからない。刀自身にならなければならない。

 隻手の声を聞こうとしては、聞かれない。隻手になることによって

それを聞かれる。刀で斬られることを恐れて、その斬る刀そのものを自分に

ひきたぐることをしないから、公案の意味がわからない。

 とにかく、参禅をする、禅の修行を始めるからには、今まで持っていた考え

今までやってきた考え方というものをどうしても、徹底的に捨てなけれならない。

それには、公案という刀が必要である。

 どうして公案の刀がそういうものを斬ることができるのか?そのような考え方をも

断然と捨てなければならない。そんな批判は、今までの考え方でのみ成立するもの

であって、そのような考え方では、禅をやることは到底不可能である。

 それで刀そのものにまず成りきることが大事である。これを正念工夫、三昧、

成りきるというのである。私たちは、いつも過去や未来のことで縛られていて、

自由を得ない。刀で斬られることばかりを考えて斬ることを知らない。

 斬る立場は、斬る立場でこそ自主自由が出てくる。向こうを見ている限り

自由は得られない。縛られまいとするのであれば、こちらから縛る方に

転ずるのが早道である。」

 公案をやったものには、なるほど大拙先生は、上手い表現をしてくれていると思う

ところです。

(平成28年12月4日 仏光録提唱 17:21)

2016年12月2日

今日の紅葉状況②

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<円覚寺山内・妙香池から>

 円覚寺境内の紅葉も今週末が見納めといったところでしょうか。

皆様、ぜひ、ご来山くださいますように。
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<白鹿洞脇参道 上から>
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<白鹿洞脇参道 下から>

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<如意庵階段下から妙香池をのぞむ>

2016年12月2日

「中道」 一日一語124

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「夕陽に照らされて 白鹿洞横参道 本日撮影」

 横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 円覚寺開山・無学祖元禅師(1226年 – 1286年)が、中国(南宋)から日本に

渡って来て、日本の禅の修行の実情を見ると、知識や才覚があることが

大事にされて悟りを求めようとしていない。たとえ見どころのある者や

優れた器量を持っている者がいたとしても、禅の語録や仏教の経典などを

読むばかりで、表面だけのうわべを飾った文章を作ることに熱心である。

見性悟道の道を究めようとする暇がないように見受けられる。

 それらの人たちは、迷いの内に一生を終えてしまい、誠に残念であると

無学祖元禅師は、その当時の日本の禅界の様子を表しています。

 また、そのように少し才覚があり、出来が良さそうな者は、語録や経典を

見て文章を作ることばかりに打ち込んでいる類の人たちがいる一方で

別の一類の人たちがいるとも無学祖元禅師は、説いています。

 別の一類というのは、道人と称するもので、本来ならば良い意味で

使うと「仏道を志す者」という意味なのですが、ところが、道人というのも

時代が下るにつれて、段々、悪い意味にも使われるようになり、

「うわべだけ仏道を求めるようなふりをしている中身のない者」や

「人からお布施だけをいただくような者」というような意味にもなりました。

 無学祖元禅師の頃は、「道人」はそれほど悪い意味では定着はしていなかった

のですが、しかし、悪い意味での「道人」も少なからずいたようです。

 無学祖元禅師の頃は、中国からお坊さんをお招きして教えをいただいていたから、

そういう方とお相手をするには、相当な勉強をしていなければ、中国語で対応

することはできない。それで、一生懸命、勉強だけする類の集団ができる。

 その一方で、そういった勉強が出来ない者は、「閒坐(かんざ)」を

以って修行をしました。この「閒坐」という言葉も良い意味使われる場合と

悪い意味で使われる場合がありますが、この場合は、良い意味ではありません。

 「ただ、じっと坐っていれば良い。それで良いのだ」と思って、仏道を

求めて自分自身向上をしていこうという気持ちがない。僧堂(専門修行道場)の

中にいると、食事は確保され、税金は免れ、労働も免除されるのを良いことに

ただ、坐って時を過ごしているという僧もいる。

 無学祖元禅師は、こういう人たちの大半は、悟ることができないと

お説きになっています。

 一生懸命に勉強をして言葉を覚えて文章を作ることばかりをしている類の人と

勉強はできないからとあきらめて、じっと坐っている者たちと分かれている。

 真実の道を求める、見性悟道の者が少ないと。当時は、こういう状況に

あったようです。

(平成28年12月2日 仏光録提唱 19:57)

2016年12月1日

「自分で何とかしなければならない」一日一語123

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<円覚寺・妙香池 一昨日撮影>

 横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 臨済下七世の慈明禅師(986-1039)は、師匠である汾陽禅師のところでの

修行の刻苦というものは、大変なものでありました。

 慈明禅師が修行に入って、1年、2年と経っても、汾陽禅師一度も入室

(禅の問題に対する個人面談)を許してくれず、独参、参禅も一度も見てくれない。

 それどころか、汾陽禅師は、この慈明禅師の顔を見るたびに罵る、または、

誹って追い出した。しかも、たまに、何か話をしてくれたとしても、仏教や禅の話は

全く教えてくれない。世間のつまらない話しか聞くことができなかった。

 普通であれば、こんな師匠ではと思うかもしれません。慈明禅師は、2年間に及ぶ

そのような態度にたまりかねて、「どうして何も御教えにならないのですか?」と

いうと、汾陽禅師は、慈明禅師を杖でもって打ちのめして、追い出して、さらに

慈明禅師が何かを言おうとしたとき、その口をぐっと押さえつけて、その瞬間、

慈明禅師が悟ったのでした。

 汾陽禅師は、なぜ、このような悪辣な手段をするのであるか?なぜ、親切に

教えないのでしょうか?

 それは、教わって学んだものは、あまり身につかないからであります。

この本を読んだ方が良いと言われて読んだ本は、あまり身につかない。

 慈明禅師は、徹底的に悪辣な手段をもって、この2年間、独参も許可されない、

禅の話も聞かされない、仏教のことも教えれない、ただ、毎日、罵れて、誹られて

追い出されている。

 それは、「自分で何とかしなければならない」ということなのです。

自分で何かをつかまなければ、自分で何かを見つけなければならないという

ことです。これをやった方が良いとか、こうしてやった方が良いとかと言って

人から教わってやるものは、これは、本当の自分のものとはならない。

 自分自身で、それこそ、草の根をかき分けてでも、これというものを

一つつかまなければなりません。これが臨済の宗風です。

 なかなか、そこまでの願心、気力、根気がいたらないのが現状であります。

普段は、いろいろと教えることもありますが、どうぞ、この1週間の修行期間は、

自分自身で何をつかみとるかです。それには、自分自身がどこまで苦労をするか

どこまで自分の体力と気力の限界まで追い込むことができるかにかかって

おります。

(平成28年12月1日 隠山禅師亀鑑提唱 50:56)

2016年11月30日

今週末(12月3、4日)、どなたでも参加できる円覚寺の坐禅会

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<円覚寺専門修行道場山門前>

 円覚寺専門修行道場では、明日から8日まで、1年で1番厳しい集中坐禅期間にあたる

臘八(ろうはつ)大攝心となります。臘八大攝心では、お釈迦様の苦行にちなんで

修行僧は、1週間の間、横になることが許されないでひたすら坐禅をします。

 横田南嶺老師をはじめ、25名の修行僧、居士・禅子(在家修行者)が

禅堂に籠り修行に精進する1週間です。
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<円覚寺境内、紅葉のピークを迎えています。>

 さて、今週末(12月3、4日)の円覚寺でどなたでもご自由に参加ができる行事の紹介です。

12月3日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 場所:居士林

 初心者を対象とした坐禅会です。初めの40分で、呼吸禅、立禅、発声禅など

準備体操にあたる瞑想をして、心を落ち着けます。それから、体の動きを止めて

静かに10分間の坐禅をします。最後に5分で質疑応答という流れとなっています。

お子様、親子でも安心してご参加いただけます。

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

(経験者の部では、足の組み方などの説明は、ございません。初めて坐禅をされる方は

なるべく、初心者の部に参加して初歩的なことを体験してくださいますように。)
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<土曜坐禅会が行われる居士林堂内>

 12月4日(日)

●8:05~9:30 日曜坐禅会 場所 大方丈

8:05~8:20 坐禅

8:30~8:50 坐禅 

9:00~9:20 坐禅 終了後 片付け

 (今回は、僧堂攝心中の為、横田南嶺老師による提唱は、ございません。)

という内容です。初心者の方には、8:10~20の間で、足の組み方などを説明しますので、

 必ず、時間までにお越しください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。

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