2017年12月10日

管長 12月・日曜説教会 映像

今日、円覚寺・大方丈にて行われた横田南嶺管長による

日曜説教会の映像です。

横田南嶺老師が兼務をしている東京・白山にある龍雲院の檀家さんでも

あった教育者・岡本先生のお話や、法華経に出てくる常不軽菩薩のお話を

されています。皆さま、ぜひ、ご覧ください。

 

2017年12月8日

成道会


 今日12月8日は、お釈迦様が、現在のインド・ブッタガヤの菩提樹の下で

お悟りを開かれた日です。

円覚寺では、10時から仏殿に於いて、成道会(お悟りを開かれたことを記念する法要)が

管長・横田南嶺老師や和尚、雲水が参列して、厳かに行われました。

 管長による成道会の偈(宗旨をうたった漢詩)。

管長猊下は、臘八の勢いそのままに、この偈を大音量でお唱えになりました。

意訳

 お釈迦様は、頭に鳥が巣を作り、眉間に蜘蛛が巣を張っても

心を集中していた。垢にまみれ、髪の毛も乱れて苦行を修めていた。

意識も尽きて何も求めるものが無くなってしまい、

ふと仰ぎ見れば、暁の天に星が一つ明るく輝いていた。

2017年12月8日

12月9, 10日 どなたでも参加できる円覚寺の坐禅会



 さて、今週末(12月9、10日)の円覚寺でどなたでもご自由に参加ができる行事の紹介です。

12月9日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 場所:居士林

 初心者を対象とした坐禅会です。初めに、呼吸や体に意識を向けるなど

準備体操にあたる瞑想をして、心を落ち着けます。それから、体の動きを止めて

静かに15分間くらいの坐禅をします。最後に5分で質疑応答という流れとなっています。

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

(経験者の部では、足の組み方などの説明は、ございません。初めて坐禅をされる方は

なるべく、初心者の部に参加して初歩的なことを体験してくださいますように。)

<土曜坐禅会が行われる居士林堂内>

12月10日(日)は、 

●9:00~11:00 日曜説教坐禅会(横田南嶺老師による法話と坐禅) 場所 大方丈

毎回500人近い、老若男女が集うお説教と坐禅会です。初めての方も多く参加されています。

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ー日曜説教坐禅会が行われる大方丈ー

 皆様のご来山を心よりお待ちしております。

2017年12月7日

「五蘊皆空の実証」一日一語156



 横田南嶺老師が昨日の臘八大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 臘八の間は、いつも、皆さん、修行僧とともに午前2時から

坐っている。それで、一通り、朝の独参まで終えると6時ごろなる。

それから、臘八の時だけ、一人で冷水をかぶっています。

 何だかバカなことと思うかもしれないが、医者からもそんな

バカなことはやめろと言われながらもやっています。

 それは、五蘊皆空(ごおんかいくう)であることを自分の身体で

実証をしたいからです。いくら坐禅をして、五蘊皆空と言ったところで

自分の身体で納得していなければ、本当のものではないといつも

思うのです。

 水をかぶるというと冷たい水が肌にあたる。そこに冷たいなという

感覚が生じる。冷たいなというものに対して思いが生じる。

不快な思い、嫌な思い、こんなことはやめようというような

意識が働いてくる。

 バカなことやってられるか、そして、思いによって、水をかぶる

のは、かなわんなとかいうような認識が生じてしまう。

 最初は、この冷水をかぶるのも、やはり、どうしても気合でやっていましたが、

その気合だけでやっているのは本当のものではないというのを、

今日は、話をしたいと思います。

 水をかぶることを冷静に観察をしていくと、別段、受想行識が働くことが

なければ、水をかぶったとしても、何の苦痛もありはしない。

 別段、ただ、水をかけるだけですから、その辺の植木に水をかけるのと

同じ道理です。そんな気持ちになる。そして、それが実証できる。

 また、自分で観察をしていると、感覚そのものには、そんな冷たいとか辛いとか

ということはない。今朝あたりは、自分でそれを体験できた。単なる温度差に

よって皮膚が収縮しているだけ、それだけだと。

空の身に、空の水が流れているだけで、受想行識も空であると

実証できた。

 それに対して、人間は様々な受想行識という思いを増幅させてしまう。

あー!冷たい!とか、嫌だなとか、かなわんなとか、そんなことが

どんどんと増幅してくると、それが苦しみの原因となる。

 そんなものは、別段空ずることができる。外のものが触れる感覚、

これだけがはっきりと感じる。冷静に観察をすれば、それで終わりです。

 あー、水が肌を流れているという感覚で終わりです。

 このように、あー、なるほど、五蘊皆空であるなと自分で体験をする。

それだけのことです。皆、その五蘊というものを作り上げて、その中で

いるものでしから、五蘊の世界同士がお互いに対立してしまう。

 五蘊皆空を自分の身体で実証をしていくことは、快活なものです。

 私も最初のうちは、気界丹田に力を入れて気合でやっておりましたが、

気合だけでは本物ではないと思うようになり、淡々と冷静に見つめて

色受想行識を空じて、水が肌の上を流れていくだけと気づきました。

 そうすると、いろいろなものに動じなくなる。どんなことでも

平々淡々と立ち向かっていくことができる。

 そこから本当の般若波羅蜜、本当の智慧が出てくるのではないでしょうか。

2017年12月7日

「平平に体究し閒閒(かんかん)に体究す」一日一語155



 横田南嶺老師が昨日の臘八大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 確かに気合を入れて加熱してやらなければ、臘八なんかは乗り越えることは

できません。しかし、これは、白隠禅の弊害の一つであろうかと

思いますが、全部、成り切れ、成り切れ一枚じゃと言って、そうして、

成り切ったと言って自分で大きな顔をして偉そうにしている。

 自分は見性した!大悟したと言って大きな顔をしてるが、実は、

世間の邪魔になっていないか。それは、お湯につかってぶかぶかしているより

まだ、ましだろうと思いますけれど、問題ではあります。

 仏光国師の言葉に「平平に体究し閒閒(かんかん)に体究す」とあります。

これは、どういう修行の在り方を言っているのであろうか?

これは、馬祖道一禅師の言われた「平常心これ道」というのが、ここに

出ているのでないか?

 白隠禅があったおかげで、禅の命脈が今日に伝わっているいます。

しかしながら、白隠禅も250年も経ってくると様々な弊害も出てくる。

白隠一辺倒にしがみついていたのでは、このような、今、申し上げたような

過ちを犯していることはないだろうか。

 禅の原点は、どこにあったであろうか?正しい仏典と照らし合わせて

それでも、間違うことのないものは、どこにあろうか?

 五蘊皆空を体得するということは、どういうことであろうか?

五蘊は、皆、空なりと体験して、一切の苦厄を度される、救われるとは

どういうことであろうか?

 経典語録を参照しつつ、禅定を怠ることなく、それでいて、

「平平に体究し閒閒(かんかん)に体究す」です。

閒というのは、心静かな様子です。私が今、自分の公案であると

思っているところは、こういう所であります。

 そんな古人が力をも費やさず、心をも費やさず、身も心も

仏の方に投げ入れて、仏の方より行われていく、これを実証していく。

「平平に体究し閒閒(かんかん)に体究す」です。

求めていきたいところでございます。

2017年12月6日

「悟ったことをも振り捨てていく気力」一日一語154



横田南嶺老師が今日の臘八大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 公案(禅の問題)を振り捨てる、悟ったことをも振り捨てていく気力、

これがまた、大事なところであります。

 公案というものをどのように修行していったらよいか?あるいは、

私たちは、どんな間違いを犯しがちであるかということを

円覚寺開山・仏光国師 無学祖元禅師は、語録の中で説いてくださっています。

 「無所得」つまり、何かを得たいと思う心、これも、最初のうちは、

これがなければ、何の道も始まりませんけれど、しかし、これが、また、

執着のもとになることもあるんだということです。

 何か得たい!何か得たい!ということが、かえって、また、執着のもとに

なってしまうこともある。

 何か得たいと思って、頭の中だけで、禅について、公案について、

仏道について考えてばかりいたり、また、頭の中で、他のものと比較して

「あっちはこうだ、こっちはこうだ」と考えていたならば、

たとえ、「あー!なるほど!」と思うことがあったとしても、それは、

一時の浮ついた妄想にしか過ぎない。

 あるいは、仏道の上から言えば、「あー!なるほど!」と思うことが

あったとしても、それは、つまずきにすぎないと

仏光国師は、仰せになっています。

 例えば、それは、蒸し風呂に入ったようなもので、サウナの中に入って

ぐっと辛抱、我慢をしてから、パッと外に出ると、「ふっ」と息を吐いて、

やれやれ、身体がすっかり軽くなったような気がして「あー、自分の

病気は無くなったようだ」とか、「自分は健康になった」とか

「自分は、もう、悟った」というような気になったものだ。

 それに対して、仏光国師は、それは、間違いだとはっきり仰せになっている。

しかし、似たような間違いを人は、犯してしまいます。

 公案の修行も似たようなもので、長い間、ずっと公案をやっている。一生懸命、

長いこと努力をしている。禅堂に長いことずっと坐っているなど、

長いことやっていると、意識が恍惚してくる、いわゆる、朦朧として

移り変わっていく。

 すると、突然に忽然として、意識が断絶、途絶えてしまう。

あたかも、意識の働きが空に雲が浮かんだり消えたりするがごとく、

幻影を見たり、聞いたりする体験をする。

 それで、これまで一生懸命、長い間、やってきたものですから、

「はっ!自分は悟った!」と思ってしまいますが、それは、一時的な

心理変化を体験したに過ぎないのです。

 仏光国師もそういう体験をされているが、それは、単なる、通過儀礼なのです。

そういうものがなければ、深い禅定には入れませんが、その途中の景色に

とどまって、悟った気になって、「自分は、悟った!」と言い出す。

 それは、妄想の花が妄想の実を結んだだけのことにしかすぎない。

あるいは、「自我意識のかたまりが砕け落ちた」ということを言い出す。

あるいは、「天と地がひっくり返ったような体験をした」とか「寒中でも

汗をかいた」とか「寒中、冷たい水をかぶっても、平気でござる」と

うそぶくのもこの程度の類です。それは、たいしたことはない。

 あるいは、「この宇宙、世界が消えてなくなった」と言い出す。

みな、こんなことは、本当の悟りではない。地面に足のついた本当の悟り

ではない。

 仏光国師は仰せになっている。浮ついた心が様々な不思議な現象を

見ているようなものであると。そんなことでは、本当の仏様の悟りの

心境を体得することは到底できない。

 浮ついた心が様々な現象を見るがそんなものは、ことごとく、

否定して否定して、振り捨てて、振り捨てていくことが肝心だ。

 そんなものにひっかかっていてはいけないという気力を得ることが

重要だ。

 そんな様々な心境の変化に執着、とらわれて、自慢していることでは、

話にならない。そうしておいて、自分は、禅僧であるとがっと眉を

釣り上げて、目を怒らせて、いかにも、禅僧らしい、いかにも、

悟ったような顔をしているが、その腹の中を覗けば、何にも

わかっていない。

求める心や執着しようとする心をやめることが肝腎であります。

2017年12月5日

「自らの意思で」 一日一語153


山紅葉

 今、円覚寺専門修行道場(僧堂)では、臘八大攝心(ろうはつおおせっしん)が行われています。

臘八大攝心とは、お釈迦様が12月8日にお悟りを開かれたことを由縁として、

12月1日から8日までを1日とみなし、1週間、横にならずに坐禅し続ける、

雲水(修行僧)にとって、1年で1番厳しい修行期間のことを言います。

 横田南嶺老師が臘八大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 お釈迦様の難行苦行と今、我々がやっているこの修行と何が違うのでしょか?

決定的に違うのは、何であるか?

 お釈迦様ほど厳しい修行はしていないというそういう度合いの問題ではない。

何か一つ決定的な違いがある。それは、お釈迦様は、誰かに言われて

やったのではないということだ。

 「こういう苦行をしろ!」「こういうことをしろ!」と言われてやった

苦行ではない。

 それに対して、我々がやっているのは、言われてやっているのではない

だろうか?決められたことだから、やっているのではないか?

 果たして、自らの意思で臘八をやろうという気でやっているのか?

臘八は、寝たらいかんと言うから、仕方ない、柏蒲団を取り上げられ、

じっとしているのではないか?

 自らの意思で「よーし!寝ずにやろう」と思ってやっているか?

進んで行くものは、自ら進むけれど、嫌々やらされているのは、

昔の人が言うように、半紙一枚でも嫌々持たされるのは重いと。

 言われたことをこなすだけでは、本当の修行にはならない。

言われたこと以上に何をしていくか?何の道でもそうであろうかと

思います。言われて決められたことをこなしていくだけでは、

何にも得るものはない。

 講本下見の間や、坐睡(*臘八中は、午後11時~午前2時の間

横にならずに、坐禅の姿勢のままで休むことが許されています)の間も

休むなとは言いませんが、ほんの5分でも10分でも、たとえ、3分でも

「自分で坐ろう!」「自分でやろう!」という、そういう自らの意思を

持って臨んでいかなければ、まるで、病院の待合室で、順番を待って

ぼやっとしているような状況になってしまう。

 それでは、いくら1週間やっても、ただ、眠いのとお腹がすいたのを

我慢するだけで、全く得ることがない。我々は、多くのご供養をいただいて

こんな年末の忙しい時に1週間も坐禅をさせてもらえることは、本当は

有り難いことであるはずであります。

 どうか、もう一度、原点に帰って、お釈迦様は誰かに言われて苦行を

したわけではない。自らの意思で、脊梁骨を立て、己と戦っていかれた。

 そこに仏教が開かれていった。この道が開かれていった。我々は

それを学んでいるのであるということを自覚しなければならない。

古人が何を求めたのか?これを求めていかなくてはならない。

(平成29年12月4日 臘八大攝心提唱より)

2017年12月1日

師走・12月の詩


 横田南嶺老師揮毫。坂村真民さんの詩です。

円覚寺山内・黄梅院の山門下にある掲示板にて、実物はご覧になれます。

Floating Clouds Far Away

Whenever I walk along with you,

a crowd of comforts

comes closer into my heart:

mountains, birds,

and even floating clouds far away in the sky.

They are approaching me

from so far away to comfort my soul.

I feel as if my heart were filled

with a broad and generous warmth,

spreading out far away into heaven and earth.

―English translation: Sakai Takahiko


今月の円覚寺公式カレンダー。

2017年12月1日

境内・紅葉の風景 12月1日現在


 妙香池。今日(12月1日)、夕方3時半頃の風景です。

この時間帯は、夕陽に照らされて、特に幻想的な美しさとなります。

 僧堂前。今、僧堂では、一年で一番厳しい集中坐禅修行期間である

臘八大攝心(12月1~8日)が行われています。

 臘八大攝心は、1週間、横にならずに坐禅をし続ける修行で、

別名「雲水(修行僧)殺し」と呼ばれるほど厳しい修行です。

 今、横田南嶺老師をはじめ、20数名の雲水、有志の和尚、居士(在家修行者)が

この修行に精進をしています。


居士林山門。

居士林前。

勅使門前。

黄梅院観音堂前。

境内の紅葉は、今週末がピークかと思われます。

皆様、ぜひ、ご来山くださいますように。

2017年11月30日

12月2, 3日 どなたでも参加できる円覚寺の坐禅会


居士林山門


居士林前

 さて、今週末(12月2、3日)の円覚寺でどなたでもご自由に参加ができる行事の紹介です。

12月2日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 場所:居士林

 初心者を対象とした坐禅会です。初めに、呼吸や体に意識を向けるなど

準備体操にあたる瞑想をして、心を落ち着けます。それから、体の動きを止めて

静かに15分間くらいの坐禅をします。最後に5分で質疑応答という流れとなっています。

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

(経験者の部では、足の組み方などの説明は、ございません。初めて坐禅をされる方は

なるべく、初心者の部に参加して初歩的なことを体験してくださいますように。)

<土曜坐禅会が行われる居士林堂内>


大方丈横の参道

 12月3日(日)は、

●8:05~9:30 日曜坐禅会 場所 大方丈

8:05~8:20 坐禅

8:30~9:00 坐禅 (今回は、横田南嶺老師が臘八大攝心の為、こちらの提唱はございません。)

9:10~9:20 読経

という内容です。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。

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