2018年12月14日

2月4日 夜の初心者向け坐禅会@居士林 参加者募集中


居士林(円覚寺の在家修行道場)山門
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居士林堂内

 最近、世間では、仏教瞑想に対する注目の高まりか、居士林で毎週土曜日に開催

されている土曜坐禅会・初心者の部(13:20~14:20)には、大勢の

方々が参加をしている現状があります。

 そこで、居士林では、夜間の初心者向けの坐禅会を設けました。

 この坐禅体験会は、2時間というゆったりとしたプログラムで、身体をほぐす体操、

呼吸への意識の向け方、足を組んで坐禅をし、最後に参加者の方に自己紹介と質問と

いった内容の懇談会となっています。

(また、椅子での参加も可能です。)

日時: 2月4日(月) 19:00~21:00

    月に一度以上の割合で開催する予定です。

    今後のスケジュールについては、当「居士林だより」にてお知らせします。

場所: 居士林 

定員: 20名

申込み:engakuji.kojirin@gmail.com  宛てに 件名「◯月◯日の夜の初心者向け坐禅会希望」にて

    ①氏名 ②住所 ③電話番号 ④年齢 ⑤職業 ⑥坐禅歴 ⑦参加動機 を記入して

    お送りください。

参加費: 大人 1000円 学生・子供 500円

  * 皆様のご参加を心よりお待ちしております。

2018年12月14日

12月15,16日どなたでも参加できる円覚寺の坐禅会



さて、今週末(12月15、16日)の円覚寺でどなたでもご自由に参加ができる行事の紹介です。

12月15日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 @居士林

 初心者を対象とした坐禅会です。初めに、呼吸や体に意識を向けるなど

準備体操にあたる瞑想をして、心を落ち着けます。それから、体の動きを止めて

静かに15分間くらいの坐禅をします。最後に5分で質疑応答という流れとなっています。

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

(経験者の部では、足の組み方などの説明は、ございません。初めて坐禅をされる方は

なるべく、初心者の部に参加して初歩的なことを体験してくださいますように。)

<土曜坐禅会が行われる居士林堂内>

 12月16日(日)

●8:05~9:50 日曜坐禅会 @大方丈 

8:05~8:20 坐禅

8:30~9:30 横田南嶺老師による「盤珪禅師語録」という禅の語録の提唱

9:30~9:50 坐禅

という内容です。初心者の方には、8:10~20の間で、足の組み方などを説明しますので、

 必ず、時間までにお越しください。

 今年、最後の土曜坐禅会、日曜坐禅会となります。

 年始は、1月5日から再開となります

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。

2018年12月9日

横田南嶺管長 12月・日曜説教会の映像

今日、円覚寺・大方丈にて行われた横田南嶺管長による日曜説教会の映像です。

  白隠禅師や陸奥宗光、方広寺派元管長・大井際断老師、執行草舟氏の

エピソードなどを例えに「延命とは何か?」について、新たな視点から、

お話をされています。

 皆様、ぜひ、ご覧下さい。

2018年12月8日

成道会


 今日、円覚寺・仏殿では、10時から成道会(お釈迦様のお悟りを開かれた日を

記念する法要)が行われ、横田南嶺管長をはじめ、臘八を終えたばかりの雲水、和尚、また、多くの

一般参列者が集まり、法要が厳粛に営まれました。

管長が大定力で唱えた成道会の偈(宗旨をうたった漢詩)。

意訳

お釈迦様は、身を正して山のそびえるように坐ったが、まだ、迷いの夢から

目覚めてはいない。

 臘月の明け方に明星をご覧になられた。その星のきらめく光が澄み渡って、

お釈迦様の眼に届いて悟りの眼が開けた。

 山を下りてきてみれば、なんとどこもかしこもすばらしい香りに満ちている

ではないか。

2018年12月7日

12月8,9日どなたでも参加できる円覚寺の坐禅会

さて、今週末(12月8、9日)の円覚寺でどなたでも参加ができる行事の紹介です。

12月8日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 @居士林

 初心者を対象とした坐禅会です。初めに、呼吸や体に意識を向けるなど

準備体操にあたる瞑想をして、心を落ち着けます。それから、体の動きを止めて

静かに15分間くらいの坐禅をします。最後に5分で質疑応答という流れとなっています。

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

(経験者の部では、足の組み方などの説明は、ございません。初めて坐禅をされる方は

なるべく、初心者の部に参加して初歩的なことを体験してくださいますように。)

<土曜坐禅会が行われる居士林堂内>

12月9日(日)は、 

●9:00~11:00 日曜説教坐禅会(横田南嶺老師による法話と坐禅) @大方丈

毎回500人近い、老若男女が集うお説教と坐禅会です。初めての方も多く参加されています。

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ー日曜説教坐禅会が行われる大方丈ー

 皆様のご来山を心よりお待ちしております。

2018年12月7日

10:00 成道会@仏殿

 明日12月8日、10時から円覚寺・仏殿にて、成道会(お釈迦様がお悟りを開かれた日を記念する法要)が

行われます。

臘八大攝心(一年で一番厳しい修行期間)を終えたばかりの

横田南嶺老師をはじめ、雲水(修行僧)らが参列し、

法要が厳かに営まれます。

 どなたでも参列することができますので、ぜひ、ご来山ください。

2018年12月7日

「甘酒のご供養」

 この円覚寺の臘八大摂心では、毎晩甘酒が振る舞われます。

これは、毎年もち米と糀(こうじ)とで自分たちで作っているものです。

この頃は甘酒が見直されていますが、実に体も温まり、よしまだ頑張ろうという力にもなるのであります。

 実はその甘酒というのは、岩手の雫石(しずくいし)の方から毎年ご供養いただいた糀を使って作っています。

 送って下さっていた方というのは、先の戦争で銃弾を受けて片目を失明され、

傷痍軍人として日本に帰って来られました方です。

聞くところによると、何でも、かぶっていた鉄兜に銃弾があたり、

貫通すれば即死でしょうが、兜の中を弾がグルッと一周して外に出たというのです。

命は取り留めましたが、片目が見えなくなり、言葉も忘れてしまったというのでした。

 入院中、一生懸命、言葉を覚えることから苦労したそうです。

自ら死ぬことも考えたらしいのですが、ある時病院で両目を失明された方が手探りで階段をはい上がっている姿を見て、

「生きねばならぬ」と思い改めたそうです。

その後傷痍軍人の錬成会で、この円覚寺の朝比奈宗源老師のお話を聞いて感銘を受けて、

円覚寺の僧堂の摂心に通われることとなったようです。

それがこの十二月の臘八の摂心であります。

我々専門に修行してる者でも大変な摂心ですが、それに毎年必ず岩手の雫石から来て参加されました。

ご実家は正直堂という文房具屋さんだったようです。

この正直堂という名前も、朝比奈老師がこの人ならと見込んでおつけになったとうかがっております。

 戦後物の無いときに、もう今年は甘酒を造ることは無理かも知れないというときがあったようです。

その時にこの方が、はるばる岩手から糀を送られたのが始まりだそうです。

それ以来毎年必ず送っていただいたのであります。
 

その方はただ単に参加するだけでなく、実に熱心に坐禅に取り組まれたそうです。

前の管長さまはよく私たちに、あの方ほど熱心に坐った人はいないと言われました。

坐禅のことを禅定(ぜんじよう)とも申します。

そこで坐禅の力を定力(じようりき)と申しますが、あの人ほど定力のある人はいなかったとも言われました。

私どもその話を聞かされる度に、「ヨウシ!負けてなるものか!」と奮起したものです。

 又印象に残っている話があります、この方は一週間臘八の摂心を済ませて、

必ずその後山内のお世話になった和尚様方にご挨拶をして、

そうして最後にご自分の帰りの電車賃だけ残して、その余りのお金で居士林で何か無い物、

不足している物がないか探して寄付して行かれたと申します。

 人のために施すことが好きな方だったようです。

一般の方が坐禅に見えるのに困ることがないようにと、下駄が壊れていれば新しい下駄を新調し、

雨傘も新調したりして、帰りの電車賃以外は皆施しをして、夕方円覚寺を発ち、上野の駅で降りて、ラーメン一杯を食べて、

そのまま夜行列車に乗ってぐっすり眠って帰られたそうです。

家計のやりくりの苦しい中でも毎年欠かすことがなかったそうであります。 

私どもはそのご苦労の様子を、毎年聞かせていただきながら、「ヨウシ!頑張らなければ!」と奮起して坐禅いたしました。

毎晩振る舞われる甘酒が、そのお話と相まってなお本当にお腹にしみわたるような思いで頂いたものでした。

それが、平成十三年の夏八月の十三日にこの方が亡くなったとの知らせを受けました。

 さてその年の冬、臘八の大摂心が参りました。

今年はもうさすがに糀も来ないだろうと思っていましたら、何とその娘さんから

「父の遺志であるから、せめて娘である自分がいる間は送らせて欲しい」と、

またはるばる岩手から糀を送っていただいたのでした。

これには心打たれました。

爾来毎年ご供養いただいて、臘八の摂心を務めさせてもらっています。

実に七十年余りにわたるご供養であります。

こんなご供養をいただいて、修行させてもらっていることに感謝しなければなりません。

そしてなお一層精進しなければ申し訳ないと思うのであります。

(平成30年12月 横田南嶺老師 臘八大攝心提唱より)

2018年12月6日

「蟻の巣の中にいた」


 仏光国師は、十七歳から足かけ六年に亘って、趙州和尚の無字の公案に取り組まれました。

はじめ一年で何とか片付くと思ったのが、うまくゆかず、二年三年経っても、まったく歯が立ちませんでした。

五年が経ち六年目に入るころには、夢の中で無の夢を見、何を見ても悉くが無字になってきました。

ふっと少し坐ったつもりが、一日経っていたというようなこともあり、

ある時には、坐ったまま一日一夜、意識を失っていたこともあるほどでした。
 
そして、ある晩、夜中まで坐りぬいて、朝の時間を知らせる木版の音を聞いて心境が開けました。

 その時の感慨を、「なんと自分は長い間、蟻の巣の中にいたことであろうか」と述べています。 

小さな狭い蟻の巣の中のような所にいたと気がつかれたのです。

 悟るということは、今までの自分が如何に思いこみにとらわれ、自ら苦しみを造り出して、

狭い世界の中に閉じこもっていたことが、はっきりと分かることであります。

 我々の迷いのもとを五蘊(ごおん)と申します。

色(しき)という、このからだがあり、その体に具わる眼耳鼻舌身という感覚器官がございます。

目で見るもの、耳に聞こえるもの、鼻で嗅ぐもの、舌で味わうもの、体に触れるもの、

それぞれに、快か不快かを感じます。これが受です。

快と感じたものには、喜びの思いが生じ、不快と感じたものには怒りの思いを起こします。これが想です。

そして思ったことに対して、嬉しいことには、更に愛着を起こします。

自分のものにしたいと思うのです。

それから不快なものには憎しみを起こします。排除しようとします。これが行です。

愛しようとしたり、憎もうとしたりするのです。

その結果行動を起こして、我々は外に世界に対して、善と悪という、自分の都合で色分けをしてしまいます。

これが識です。色受想行識で五蘊となります。

 私たちは、自分で造り上げた五蘊という穴の中に住んでいるのです。

他の人はまたその人の五蘊という枠の中で生きているのです。

ですからお互いに、違いますので時には反発したり、争ったりしてしまいます。

本来自己の無いという広い世界に気がついたならば、自分が今まで狭い五蘊という、

蟻の巣のような狭い世界の中に閉じこもっていたと分かります。

五蘊をありのままに観察できるようになるのです。

すると五蘊に対するこだわりが解けます。

五蘊というものは、何もとらわれることのない空なるものだということがはっきりします。

それによって、苦しみから解放されるのです。般若心経に説かれる、

「五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度す」というところなのであります。

(平成30年12月 横田南嶺老師 臘八大攝心提唱より)

2018年12月5日

「苦行の果てに」

 
 臘八の修行は、お釈迦様の難行苦行にならう修行でもありますので、いつもお釈迦様の苦行の話もいたします。

 お釈迦様は、王子という位にあって、きわめて裕福に暮らされました。

しかし、それでは、満足が出来ずに、出家して苦行の道を選ばれたのでした。

 苦行では、息を止める修行や断食をなされました。

一日に一食、二日に一食、七日に一食、さらには半月も断食されたりしました。

わずかの豆や小豆の類いを取るだけで、みるみるお痩せになりました。

 手脚は、枯れた葦のようであり、尻はラクダの背のように、背骨は編んだ縄のようにあらわれ、

肋骨は腐った古屋の垂木のように突き出て、頭の皮は熟しきらない瓢箪が陽(ひ)にさらされたようにしわんで来ました。

 それでもただ、瞳だけは落ちくぼんで深い井戸に宿った星のように輝いていたといいます。

 そんなお姿を写したのが、パキスタンのラホール美術館にある釈迦苦行像であります。 

その頃のお釈迦様のご様子を、経典ではこのように表現しています。

 腹の皮をさすれば背骨をつかみ、背骨をさすれば腹の皮がつかめた。

立とうとすればよろめいて倒れ、根の腐った毛はハラハラと抜けおちた。

 過ぎし世の如何なる出家も行者も、来るべき世の如何なる出家も行者も

これより上の烈しい苦を受けたものはないであろうと思われたほどありました。

 日に焼かれ、寒さに凍え、恐ろしき森に只一人、衣もなく、火もなく、理想のひかりに聖者は坐られたのです。
 
ときには、屍や骨の散り積まれた墓場に夜の宿を取られました。

牧羊者の子供達がお釈迦様を見つけて、唾をはきかけ、泥を投げつけ、また木の枝を取って耳にさしこみました。

しかし、お釈迦様のお心は彼等にたいして少しも怒りを発することはありませんでした。

経典は、更にこう記しています。

 「血は枯れ、あぶら失せ肉落ちて、心いよいよ静まる。正念と智慧と明らかに、禅定いよいよ固し。

われ、かつて、五欲の楽しみの極みを尽くし、今やその欲に望みなし。この清浄の人を見よ」と。

お釈迦様の教えは、こんな苦行の果てに体得されたものです。

 
 八木重吉の詩に、「神の道」というのがあります。

『 自分が

 この着物さえも脱いで

 乞食のようになって

 神の道にしたがわなくてもよいのか

 かんがえの末は必ずここにくる』

というのです。神をお釈迦様に置き換えてみますと、その通りだと思われます。 

 ときには、そんな純粋さばかりでは生きては行けぬと言われるかもしれません。

 たしかに、純粋さだけでは生きてゆけぬでしょう。

しかし純粋さを失えば、また生き残れぬと思うのであります。

 年の一度の臘八を迎えると、お釈迦様を純粋にお慕いする気持ちが湧いてくるのです。

(平成30年12月 横田南嶺老師 臘八大攝心提唱より)

2018年12月4日

「一点に集中」

 達磨大師の言葉と伝わるものに、

「外、諸縁を息(や)め、内心喘ぐこと無く、心、墻壁の如くにして、以て道に入るべし」という語があります。

 坐禅の心得を示されたものです。

先ず第一は外の世界に対して、一切心をはたらかせないようにします。

眼で見えるもの、耳で聞こえるもの、鼻で嗅ぐもの、舌で味わうもの、体に触れて感じるものに、一切心を動かさない。

外から入ってくるもの一切を遮断してしまうのです。

すると、今度は、心の内からさまざまな思いが湧いてでてきます。

むしょうにものが欲しくなったり、腹が立ってきたり、あれこれと心が散乱したり、

または心が沈んで、やる気がなくなり、怠惰になったり、眠気が起こったりします。

その内心に湧いてくるもののすべて断ち切って坐ります。

その要領が、心を切り立った壁のようにしてしまうことです。

何物も寄せ付けぬぞという気迫をもって、一つの事に集中するのです。

そうして、仏道に入ってゆくと説かれます。 

何物を寄せ付けぬようにするには、心を一点に集中するのがうまくゆきます。

それが呼吸を数えることであったり、無の一字に集中するのです。

体の上では、おへその下の丹田に一点に意識を集中させ、心では無の一字に集中させて、

それを一つにしてしまいます。

 すると、体も消えて、ただ呼吸だけが残るような感覚になります。

更にその呼吸も、この広い空間に溶けていって一つになってゆくのです。

これを古人は「空蕩蕩地(くうとうとうち)」といいました。

空っぽでどこまでも広がった世界です。これが道に入ってゆく第一歩であります。

 そのように一点に集中してゆく修行ですが、臘八のように睡眠が足りていないと、

特に途中眠気に襲われます。

集中していく過程と眠りに入る過程とは、あるところまでは同じ道を辿ります。

そこで気をつけていないと、眠りに落ちてしまうのです。

 眠りに落ちないように、集中してゆく為には、やはり目をはっきり開くこと。

何かを見ようとしなくても、はっきり見えているという状態を保つことです。

それから口元を引き締めて、舌をしっかり上あごに付けること、

要は口がたるまないことです。

そして法界定印を結んだ手をしっかり組んでおくことです。

この三つをしっかり意識できていれば眠気は退散してゆきます。

どうしても眠いならば、意識を思い切って眉間に引き上げることです。

丹田に下げるのではなく、一時的に引き上げて覚醒させてみる。

そうして目覚めた状態で一点に集中してゆくのであります。

(平成30年12月4日 横田南嶺老師 臘八大攝心提唱より)

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